東京禅センター

一期一会

 東京だけでなく全国で酷暑が続いています。

 心も身体も気だるくて、いろいろなことが等閑(なおざり、物事に注意を払わないこと)になってしまいます。使った時に片付けておけば良いのに片付けず、気がついた時に行じてしまえば良かったのに、あとでやれば良い、誰かがやってくれるだろう。その積み重ねで物は散らかり汚れて、段々生活しづらくなります。その原因は散らかった物ではなくて、気だるく散漫になった心です。心や現れ出る人柄は生まれ持った部分もありますが、そのほとんどは後天的に身についた癖のようなものです。

 東京オリンピックを控えて、東京に住んでいると少しずつ景気が良くなっていることを実感します。たくさんの建設現場が街に出現し、テレビでは「やっぱり◯◯区在住はセレブで〜」などと狭い二十三区の中でも格差を煽るような、景気が上向く時期にありがちな放送が見られます。誰かと比べて幸せになり、心がふわふわと浮いて良い心持ちになって「わかっちゃいるけど、やめられない」という名言を笑いながら言い合える楽しく幸せな時間は良いですが、人生はそれだけではありません。思いがけない出会いや災いに対し、お金で外面的には取り繕うことはできますが、滲み出る人柄や心の受け止め方の癖を取り繕うことは難しいものです。

 

  思うようにならない人生を少しでも苦しまずに過ごすために、心をいい加減にせず生きることを禅では重んじ、臨済禅と深い関係にある茶湯でも倦怠な心を戒めます。千利休の高弟であった山上宗二(1544−1590)は「一期一会」という言葉を用いて『山上宗二記』の「茶湯者覚悟十体」の中で、

 

 道具開き、亦は口切は云ふに及ばず、常の茶湯なりとも、露地へ入るより出づるまで、 

  一期に一度の会のやうに、亭主を敬ひ畏るべし。

 道具開き(保有する茶道具を出して点検・披露する事)、または口切(立冬の頃に、

  茶壺の封を切って新茶を供する事)はもちろんのこと、平生の茶湯の折でも露地を入っ

  てから出るまでは、一生に一度の巡り会いのように、亭主を敬ってもてなしを受けるよ

  うに。

 

と述べています。また幕末に大老を務め安政の大獄を主導したとされる井伊直弼(1815-1860)は茶人としても有名で、著書『茶湯一会集』の中で、

 

 抑(そもそも)、茶湯の交会は一期一会といいて、たとえば幾度同じ主客交会すると

 も、今日の会に再びかえらざる事を思えば、実に我一生一度の会なり。さるにより、

  主人は万事に心を配り、いささかも麤末(そまつ、大事なものを粗く扱うこと)なきよ

  う深切実意(真心をつくすこと)を尽くし、客も此の会に又逢いがたき事を弁え(わき

  まえ)、亭主の趣味何一つもおろそかならぬを感心し、実意(真心)を以て交わるべき

  なり。是れを一期一会という。必々(かならずかならず)主客とも等閑(なおざり、い

 い加減なこと)には一服を催すまじき事、すなわち一会集の極意なり。

 

と記し、度々茶湯で出会う間柄であっても、その日その場は一生に一度の出会いであるから、亭主はすべての事に心を配り、客は主人のもてなしを真心いっぱいで受け取るように尽くすことが極意であると述べています。

 特別な機会だけ意識すればよい、その場でできればよいということではありません。茶湯の稽古を通して身につけるべきものは、お点前の仕方や着物の着付け、礼儀作法などの技術習得だけではないと思います。ただ一服の茶を差し上げるための行為ひとつひとつに真心を尽くし、その日の気温や客の顔ぶれを思い浮かべて露地に入ってから出るまで隅々まで心を配る稽古でひとつの目標とするものは、自分の欲や等閑な心を排して、こころをひとつに纏めて瞬間瞬間を一生懸命過ごす生き方です。

 私たちは、調子が良い時は過去の実績を誇りに思い未来に自信をもって生きています。けれど、たったひとつのきっかけで過去の実績は後悔に変わり、未来への自信は不安に変わってしまいます。自らの心が勝手に生み出す不安や後悔に苛まれる辛さこそお釈迦様が「苦」と定義されたものです。

 思うようにならない人生を少しでも「苦」に振り回されずに過ごすために、心をひとつにまとめて丁寧に瞬間瞬間を積み上げて、散漫になる心の癖をつけないように生きることが大切です。

 酷暑の只中、理想ばかりを思い浮かべることなく、手の届く範囲に心を配り、丁寧に夏を越していきたいものです。

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