東京禅センター

誰も悪いわけではないから、仕方がない

新型コロナウィルスの流行が収まらず、さらに緊急事態宣言が延長されることになりました。飲食のお店など、営業を自粛している方々は本当に大変な状況でしょう。一刻も早い事態の収束を願うばかりです。

 

外出を自粛しているひとや、お店で営業縮小しているひとのインタビューが毎日のようにニュースで流れますが、それを聞いているいると大抵最後に、

 

誰も悪いわけではないから、仕方がないけどね。

 

とお話しされているのが印象的でした。自粛の延長を喜ぶ人はいません。仕方がないと諦めて、自粛をしているのだと思います。

誰かのせいにできれば楽なのかと言われると、そうではありません。今回の新型コロナウィルスの流行は生命が関わる重大事ですから、怒りのやり場もなく、大きなストレスを感じつつも、仕方ないと諦めざるを得ないのだと思います。

 

さて、ストレスを感じると日常的に使いますが、その原因と経過を考えてみたいと思います。自分にとって不都合なことだと判断すると、不安や後悔を抱いてしまい、ストレスを感じたと思うのだと推測します。今回の新型コロナウィルス流行は、私たちにとって不都合極まりないものでした。

 

一歩進めると、不都合だと感じる私たちの心の作用に、原因の一つがあるようです。そのことをお釈迦様は「苦(原語のパーリ語やサンスクリット語ではdukkha ドュッカ)」と表しました。私たちが使う「苦」は精神的・肉体的苦痛だけでなく、「不満足」などの意味が足されます。そして「苦」の原因に我見を挙げています。我見とは「自分だけの偏った見方」を指します。お釈迦様は「諸行無常(すべてのものは移ろいゆく)」「諸法無我(自分という固定したものはなく、全ては縁によって結ばれている)」という真理を説かれました。

だから「ずっとこのままでいたい、これは私のものだ」という我見で判断すると、真理から外れ、苦(不満足)を生んでしまうということです。

新型コロナウィルス流行で、私たちの当たり前の日常が突如崩れました。当たり前の日常が過ごせなくなったときに、不満足が生まれ、ストレスが増大しました。だから、当たり前の日常と無意識に思っていたものは我見であったのです。

 

坐禅などの瞑想やその他仏道修行を通して、我見を忘れ、少しでも楽に生きる教えを仏教では伝えています。我見を忘れるとは、降りかかる物事を自らの心に受け入れるということです。

わたしがニュースで耳にした、

 

誰も悪いわけではないから、仕方がないけどね。

 

という言葉は、新型コロナウィルスの流行を不都合に感じていたけれど、仕方ないと心で受け入れて、前を向く心の現れだと思います。私たちの心には、絶えず降りかかる困難を受け入れて前を向く心の作用が具わっています。

 

普段は自らの心と対峙して見つめることなど、ほとんどないと思います。

自粛が長引く中、不安やストレスを感じる心を放っておかずに、坐禅を通して見つめていただきたく存じます。

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