東京禅センター

「浄躶々、赤洒々」

立夏が過ぎ、暑い季節が間近に迫っています。

私事ですが一月末に次女が誕生し、お食い初めも無事済み、まるまると太って順調に育っています。

身体の成長に比例して声も大きくなり、世界中に響かせんばかりに抱っこをせがんで泣き喚いています。

目を閉じたので寝入ったかなと思い、抱っこに疲れてしびれる腕をゆっくりと降ろし布団に寝かせると、あたかも背中にセンサーがついているのかと思ってしまうほど、敏速に目を開け泣き叫ぶのです。この上なく愛おしく思い、時には憎らしく思いながら抱っこをして生活していると、ふと疑問が浮かびました。

一休禅師が作ったと伝わる、

 

 生まれ子がしだいしだいに知恵づきて 仏に遠くなるぞ悲しき

 

という句を引いて、禅院では貴ぶことがあります。

生きとし生けるものは皆、「仏心」を生まれながらに具えているけれど、成長とともに知識を身につけるにつれ自分の都合で判断するようになり、あからさまに事象や他のひとの悲しみを受け入れることができなくなります。「これは自分にとって都合の良いこと・悪いこと」と分別することで、あっという間に人生は苦だらけに変わってしまいます。しかしそれは外境が変わったわけではありません。それを受け止める自らの思考・心が変容したのです。ですから、苦をなるべく感じることなく生きるために、生まれたばかりに具えていた仏心で事象を捉えることが肝要だと禅は説き、わかりやすく一休禅師は歌を詠まれたのです。

 

表題の「浄躶々、赤洒々」は、そんなありのままを貴んだ禅語です。

「躶」は「はだか」、「赤」は「ありのまま、むきだし」、「洒」は「あかぬけてさっぱりしている」をそれぞれ表しています。

次女を抱いていて気づくことには、祖師方が説かれるのは「赤子に戻れ」ということではないことです。たくさんの経験を経て苦楽を味わい、分別心こそ苦の源だと気づいて、それをひととき忘れることができたとき、心のままに暮らすことができ他のひとも自らと同等に慈しむことができるのだと思います。

『臨済録』に、以下の文章があります。

 

仏法は用功の処無し。秖(ただ)、是れ平常無事、屙屎送尿(あしそうにょう)、著衣喫飯(じゃくえきっぱん)、困じ来たれば即ち臥す。

(意訳)仏法というものは、おまえたちひとりひとりに満ち満ちていて、わざわざ付け加えるところはない。ひとりひとりがそのままで平常無事である。自然と排泄をして寒ければ着衣し、疲れて眠る。それが仏教の真髄そのものだ。

 

社会通念や常識に囚われてどうにもならなくなったとき、新しく知識を身につけたり、無我夢中で外から求めたりしますが、状況を変えることは大変です。

求めることを止めたとき、自分の中に満ち満ちるものを感じることができるということです。

 

泣き叫ぶ次女を抱きながら、自分の仕事や予定を気にするといらいらしてしまいます。けれど勇気を出して電話をして仕事を代わってもらい、ひといきついた時、沸々と愛おしさが湧いてきます。自分より幼いものが泣いていたり、寂しそうにしている時に思わず抱きしめるときの心持ちは言葉では言い表せません。親にしつけられたわけでもなく学校で習うものでもありません。これが臨済禅師が云う「平常無事」であり、この心で生きることが「浄躶々、赤洒々」だと、初夏の眩しい季節に思った次第です。

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