東京禅センター

諸行無常の只中で

 新型コロナウィルス禍で、外出の機会が減りました。三密を避ける・消毒をするなど気をつけることが多くて、外出したとしても季節を味わうような心もちになれなかった方も多くいると思います。外では、あっという間に桜も散って、私が住する寺ではクチナシが咲き、紫陽花も葉が茂って梅雨が近いことを知ります。花など自然の変化を感じて、都市部で時の移ろいを知るのは簡単ではないかもしれません。そのかわりに季節の祭事が多くあって、季節の移ろいを意識したように思います。今年の浅草は、三社祭も隅田川花火大会も中止になりました。生まれ育った者にとっては寂しくて仕方がありません。知らず知らずについた癖のように、季節をめぐる要素として心身に染み付いていることがわかり、こうした外的要素がなくなってしまうと自分が自分でないような気がいたします。仕事や学歴、自分が自分だと思っていることは的外れなものです。

 

仏教の根本理念のひとつに「諸行無常」があります。全てのものは移ろいゆくという誰でも知っている真理です。しかし、その真理に心を留めてしまう我々の当たり前にある心理に問題があるとお釈迦様は説きます。

 ダンマパダ(『法句経』)に、

 

一切の形成されたものは無常であると明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦から厭い離れる。これが清浄の道である。

 

とあります。

「明らかな智慧をもって観ると苦から厭い離れる」ということは、諸行無常に心を留めずに、ありのままに受け止めて生き続けることが苦(不満足・人生はうまくいかないと思うこと)を受けずに楽に生きるコツだとお釈迦さまは説かれました。自分というものは固定化しているように思えますが、当たり前に変化し続けるものだと感じ取ることが、ありのままに事象を受け止めることに繋がると思いました。そのひとつの手段として、諸行無常を理解だけで終わらせるのではなく心身で感じ取ることが一助になると思います。

 

 去年の三社祭は例年通りに5月第3週の週末に催行されました。町も混んで騒がしいし、私もお祭りに参加したいという下心もあって、祭礼中は法要を承りません。しかし、去年は四十九日の法要が祭礼中にありました。

いつもより早い時刻に法要が終わって本堂の扉を開けると、お神輿が通るために町の住人が掃き清めた町の清々しさが広がり提灯が揺れています。早く片付けて祭礼に参加しようと思った矢先、作務衣姿の女性が入ってきて挨拶をされました。伺うと、仏教に興味があって学ぶうちに、近隣の他宗派のお寺で出家されたとのこと。いざ浅草のお寺で生活してみると、たくさんの宗派の寺院が所在することがわかり、休みのたびにお寺を巡って話を聞いているそうです。ぜひお寺と宗派のお話をお聞かせくださいと言われ、正直こんな時にどうしてと思ってしまいました。祭囃子と掛け声が聞こえ、町中に高揚感が漂い始めます。

けれど、心を入れ替えて境内を案内して禅宗のことをお話しするとメモをとりながら一生懸命に聞いてくださりました。30分くらいお話しして、門前まで送ると、女性が方向を見失ったことに気づきました。ちょうど、私のお古の網の紋(三社祭を斉行する浅草神社の紋)の浴衣を着せてもらった長女と一緒に見通しのよい交差点まで送ることにしました。交差点で改めてお別れの挨拶をすると、

 

蕃茉莉(バンマツリ)の良い香りがしますね

 

と女性がお話しされました。辺りを見回すと、コイン式駐車場の隅に生えている子供の頃から見慣れていた白と紫の花をつけた樹木が目に入りました。ちょうど三社祭の時節に辺りで漂う芳しい香りは知っていました。けれど、香りの元を考えたこともなく、女性の一言で初めて気づかされました。

浴衣を着た長女と手を繋いで交差点に立ち、30年以上前に浴衣をきて祖母に手を引かれてお祭りに参加したことを思い出しました。

交差点を囲む建物はそれ以来変わらず、片隅には毎年変わらずに蕃茉莉が咲き、かぐわしい香りを放ち、三社祭の祭囃子が響きます。久しぶりに祖母のお祭りでの姿を思い出して心が温かくなり、変わらない景色と変わらない祭囃子のなかで、自分が力強く変化しながら順送りの生命を生きていることに気づきました。

 

自分が自分だと思っているものは、学歴や仕事などで身勝手に取捨選択して構成しているものばかりです。普段は当たり前すぎて気づかない、自らのなかにある諸行無常に気づかされた時、たくさんのご縁のなかで変化し続けている自分を感じ取ることができました。

 新型コロナウィルス禍の只中、外の情報ばかりに捉われて不安になるのではなく、自らの心をみつめて安らかになりたいものです。

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