東京禅センター

vol.3 からっぽになって歩く

からっぽになって歩く

vol.1〜2では坐禅の組み方を配信しました。

今回は、妙心寺派布教師 星 大晃師(妙心寺派 仙台 善應寺住職)の法話をお伝えします。

臨済禅の、涼やかな法話に目を通していただけたら幸いです。

 

□■   からっぽになって歩く 星 大晃 ■□

震災以降、当寺ではいろんな方のご相談を受ける機会が多くなりました。
先般は「どうせ死ぬのだから人生は無駄であるのに、なぜ生きるのか」という問いを下さる方がおられました。

その方の言う無駄は「無意味」として使われてます。
無駄の駄とは、辞書などを見ると荷物を運ぶ馬の事だそうです。物を載せていない状態を無駄と呼ぶとのこと。
荷物を載せぬ馬に利益がないことから出来た言葉だということです。どうも無駄とは「からっぽ」の事だと言えそうです。

 

禅は、この「からっぽ」を見つめる教えと心得ます。からっぽは「空っぽ」と書く。般若心経にも出てくる「空(くう)」であります。
この「空」とは空気のようなものだと、妙心寺派布教師の故松原哲明師は示されました。

空気というのは私たちの周りに無限に満ちているものです。それに形があるとすれば、私たちの形に合わせて、自分の形を変えて存在している事になります。

境目がなく、どこともつながっていて、しかし見えないもの。それが空です。
荷物を載せなくても馬は馬であり、また次の機会が廻ればまた荷駄となれる、空っぽとは、いつでもどんな形にも成れる状態であります。
意味を為さないというのが普通使われる「無駄」ですが、どのような意味を持つ事も出来ると言えます。

 

さて私はとある事をして「無駄なことを」と言われたことがあります。
平成十六年夏、私は禅の専門道場での修行を一旦切り上げ、
「自坊」と言って、自分の生まれた仙台のお寺の跡を継ぐために帰ることになりました。

京都から仙台まで新幹線を使ってスパーッと帰れば四時間半程度。直線距離にして約八百キロ。仙台に帰ると決めたときに
「そうだ、仙台まで歩いて帰ろう」
と、まるでかの有名なキャッチフレーズのような言葉が浮かんだのでした。

そうなるきっかけがあります。わずか三年半程の道場での修行で格式ある寺の跡を継ぐ事になり、なにか立派な事をしたいと思いました。「よし、ならば行脚だ」ということで、志だけは大きく持ちました。

いよいよ出立の日。雲水衣に数枚の着替えとカミソリ等の生活用具、雨合羽と網代笠、腰に草鞋を数枚ぶらさげていけば、
なんとかなるだろうという軽い気持ちで歩きはじめました。

初日の昼にはすでに足が痛く、琵琶湖の畔で「大津駅から帰ろう」と思うわけですが「とりあえず次の駅まで。」を繰り返し、
どうにかお寺さんや旅館、民宿、時には普通のお宅に民泊しながら歩きました。

自坊の師匠からは行脚を続ける条件として、道中泊まった処で自坊に電話をかける事を義務付けられました。
そしていつも電話するたびに「無駄なことしてないで早く帰って仕事をしてくれたらいいのに」と言われました。
確かにその方が自坊の為だと思えます。

思えば道中立ち寄るお寺では突然の訪問の為に迷惑をかけたり、体調を崩して病院にかかり、
泊まったお寺の奥様にご面倒を見て頂いたり。道にもよく迷い、仙台が遠く感じました。

自分はなんとはた迷惑で無駄な事をしているんだろう。師匠に言われたことが現実味を帯びてきていました。
あるとき、とある山間のお寺さんに立ち寄りました。ご住職は若い頃、道場から帰る際に行脚をし、自分のお寺には帰らず、そのまま本州をぐるっと一周してしまったという方で、面白いお話を沢山伺うことが出来ました。その中で頂いた言葉があります。

「自分は道場に長い事いたけど、俺はこれだけ頑張ったんだ。俺はすごいんだと驕るようになって、しかも行脚にでた最初の頃も、行脚してる俺ってすごい。と恥ずかしくもなく思ってたんだ。でも行脚中立ち寄るお寺で『入るな』と水をかけられたり、ひどい時は通報されたりもしてね。最初は腹が立って、そのうちこんな事意味ないな、無駄だったのかなと思いながらも歩いてたら、ふっと『行脚ってなんでもない自分自身がただ歩いているだけなんだ』と思えたんだ。そしたら随分と重たい荷物を心で背負ってたと感じた。それをおろしたら、なんだかどこまでも歩いてみたくなった。それもこれも今までの一歩一歩のおかげ。悩んだり苦しんだことのおかげ。無駄にしてたのは、私の都合なだけで、全部がそのうち役に立つもんだよ。」と仰られました。

わたしもやはり心に荷物を背負って、しかもそれを自分でどんどん重くさせながら、自分の都合でもって行脚をしていたように思います。
お話を聞き、ただの私が歩いている、その事を思いました。すると逆にその私に沢山の尊い出会いがあって、荷物だと思っていたものを置いたところがそのまま土台となり、私を支えていると感じました。
私にとっての行脚は、決して無駄ではなく、自坊で働く事と変わらぬ大切な経験だったと思っています。

 

一旦荷物を置く、つまりからっぽになってみると、そのからっぽになった「もの」が見えてくるのだと思います。
「人生は無駄だ」と言った方と、わたしは一緒に本堂へお参りし、境内を散策しました。歩きながら行脚の話をしたら、自分もしてみたいと言われました。その後どうなったかはわかりませんが、時折荷物を降ろして、からっぽになって、無限の出会いを楽しみながら歩いてくれている事を願っております。

 

妙心寺派布教師 星 大晃師(妙心寺派 仙台 善應寺住職)

 

 

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