禅の教え

妙心寺の歴史 用語集

花園法皇

花園法皇は永仁5年(1297)7月25日、伏見天皇の皇子としてお生まれになり、お名前は富仁(とみひと)親王と申されました。母は顕親門院(けんしんもんいん)季子といわれました。延慶元年(1308)、わずか12歳で天皇の位につかれました。その頃、天皇は大覚寺統と持明院統が交互に皇位にのぼる(10年1期)ことが定められていた時代で、花園天皇もこれに従い文保2年(1318)22歳で退位し、大覚寺統の後醍醐天皇に譲位されました。やがて、時代は南北朝の対立へと移り、この混迷期のなかで若くして上皇となられた花園法皇は、禅の実践へと心を傾けられることになります。

 

宗峰妙超

宗峰妙超(1282〜1337)禅師は、播磨の人ではじめ書写山にのぼり戒を学びましたが、のち禅に帰し20歳のとき鎌倉の高峰顕日(こうほうけんにち/仏国禅師)禅師につき、さらに、南浦紹明(なんぽじょうみょう/大応国師)禅師に参じました。花園上皇は、師より参禅指導を受けられました。1326年には後醍醐天皇から地領の下賜があり、龍宝山大徳寺に迎えられます。

 

関山慧玄

関山慧玄(1277〜1360)禅師は、信州・中野の城主・高梨美濃守高家の二男としてお生まれになりました。徳治2年(1307)建長寺で大応国師(南浦紹明)のもとで修行され、慧眼(後に大燈国師より慧玄と改名)という名をつけられました。国師亡き後、京都の大徳寺を開かれた大燈国師がわが国で最もすぐれた禅僧であると聞き、急ぎ京都に旅立ち大燈国師に参じ、ついに悟りを開かれました。開山さま53歳の時です。

その後、美濃国伊深の山里で「悟後の修行」に8年間も専念されました。大燈国師が示寂されると、花園法皇は関山慧玄禅師を捜されます。はじめは固辞された関山慧玄禅師ですが、都へ上られ妙心寺の開山となられました。その後、弟子の指導に明け暮れた関山慧玄禅師は、弟子の授翁宗弼(じゅおうそうひつ)禅師を伴われて、開山堂側にある風水泉(ふうすいせん)の前で最後の法を説かれ、行脚姿で立ったまま亡くなられました。後に、明治天皇より無相大師と諡されました。

 

授翁宗弼

授翁宗弼(1296〜1380)禅師は、42歳の時に関山慧玄禅師について禅の修行に入り、印可されるのは61歳です。関山禅を嗣法(しほう)した唯一の弟子です。無因宗因(むいんそういん)禅師などの弟子を出して、85歳で亡くなられます。墓は三雲の妙感寺、本山の塔所は山内の天授院にあります。

 

雪江宗深

雪江宗深(1408〜1486)禅師は、法をつぐ4人の弟子、景川宗隆(けいせんそうりゅう/龍泉派祖)禅師、悟渓宗頓(ごけいそうとん/東海派祖)禅師、特芳禅傑(とくほうぜんけつ/霊雲派祖)禅師、東陽英朝(とうようえいちょう/聖澤派祖)禅師を輩出し、四派の祖となります。この4人は、妙心寺住持を1期3年で順次交代し、妙心寺住持の制度化が図られます。

 

利貞尼

利貞尼は美濃の豪族・斉藤利国の妻で、関白・一条兼良(いちじょうかねら)の娘でした。夫・利国が戦死したのち、悟渓宗頓禅師の弟子となって尼となります。天文5年(1536)、81歳で永眠しました。

 

寺院法度

慶長8年(1603)、徳川家康は征夷大将軍に任ぜられ、江戸幕府を開きますが、元和元年(1615)5月大阪落城とともに、多くの法度を制定して法治制度を徹底しようとします。

7月には「武家諸法度」「禁中並公家諸法度」「諸宗諸寺法度」などが発布され、京都御所も諸宗諸本山もきびしく幕府の管理下に置かれることになります。特に大徳寺と妙心寺に対しては別に法度を定めて、両寺が従来皇室から直接に紫衣開堂を勅許されていた特権を、幕府の許可事項として厳重な制限を設けました。

 

 

 

 

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