禅の教え

妙心寺の歴史

妙心寺の歴史

双ヶ丘の東、京都市右京区には「花園」という地があります。昔、この地域には公卿の邸があり、お花畑があって、四季折々に美しい花が咲き乱れ、いつしか「花園」と呼ばれるようになっていました。
この地をこよなく愛し、ここに離宮を構えて禅の奥義を究めるとともに、常に世の中の平和を願われた法皇さま、そのお方が第95代天皇、花園法皇さまです。法皇は、この花園の離宮を改めて禅寺にされました。

これが、臨済宗妙心寺派の大本山である妙心寺のはじまりです。山号は正法山(しょうぼうざん)と称します。開山は関山慧玄(かんざんえげん)、開基は花園法皇です。

現在の妙心寺は、塔頭46ヶ寺、末寺は日本をはじめ世界各国にわたり3,400ヶ寺余り、在籍僧数は約7千人を数えます。関連機関としては花園大学、花園高校、花園中学校、洛西花園幼稚園などがあります。

時代 年号 西暦 歴史
南北朝 建武4年 1337 花園法皇は、大燈国師(だいとうこくし)で知られる大徳寺を開かれた宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)禅師に参禅し、印可(いんか/弟子が悟りを得たことを師匠が認可すること)されています。
宗峰妙超禅師は病に伏し重態となられ、花園法皇の求めに応じて、弟子の関山慧玄(かんざんえげん)禅師を師とするよう推挙されました。そして、花園法皇は花園の離宮を禅寺にし、宗峰妙超禅師が正法山妙心寺と命名されました。
12月22日、宗峰妙超禅師が亡くなられましたが、妙心寺では、この建武4年を開創の年としています。
北朝 暦応元年 1338 花園法皇は、玉鳳院(ぎょくほういん)を建てられ、関山慧玄禅師に参禅されます。
貞和3年 1347 花園法皇は、妙心寺に寄せる熱い思いを「往年の宸翰」(おうねんのしんかん)にしたためられました。
貞和4年 1348 花園法皇崩御、52歳。
延文5年 1360 関山慧玄禅師示寂、84歳(本有円成国師、無相大師)
康安元年 1361 関山慧玄禅師の弟子、授翁宗弼(じゅおうそうひつ)禅師が妙心寺の住持となります。
康暦2年 1380 授翁宗弼禅師示寂、85歳(円鑑国師、微妙大師)
室町 応永6年 1399 応永の乱が起こり、足利義満が妙心寺を没収。妙心寺第6世の拙堂宗朴(せつどうそうぼく)禅師は青蓮院に幽閉され、妙心寺は龍雲寺と改名させられ、中絶します。
永享4年 1432 妙心寺が返され、日峰宗舜(にっぽうそうしゅん)禅師が妙心寺を中興します。
応仁元年 1467 応仁の乱が起こり、妙心寺、竜安寺ともに焼失します。
文明9年 1477 雪江宗深(せっこうそうしん)禅師が後土御門院(ごつちみかどいん)から妙心寺再興の綸旨を得て再興します。
永正6年 1509 利貞尼(りていに)という人が、仁和寺領の土地を買い求め、妙心寺に寄進され、妙心寺の境内地が今日のように広くなりました。やがて七堂伽藍(しちどうがらん)が建てられ、塔頭(山内の小院)が創建されていきます。
江戸 元和元年 1615 江戸幕府が寺院法度を出す。
寛永6年 1629 妙心寺と大徳寺の禅僧が江戸幕府の寺院法度に抗議しますが、単伝士印(たんでんしいん)禅師や沢庵宗彭(たくあんそうほう)禅師など4人の僧が処罰を受けます。これが紫衣事件です。
明治 明治元年 1868 神仏分離令が発布され、各地で廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)が起こり、寺院の取り壊し、仏像や経典などが破棄され、妙心寺もその影響を受けます。しかし、この明治期は、宗議会など今日に至る妙心寺の運営体制の基礎ができ、妙心寺専門道場が設けられたり、今日の花園大学、花園高等学校の前身となる般若林が開設されます。
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