妙心寺について

臨済宗妙心寺派人権擁護推進指針

(1)戦争・テロ

 宗門内外を問わず人権に関わる事件に対して、本派ではそのつど適正な対応をしてきました。例えば妙心寺派第100次定期宗議会の「宣言」を受けた「本派人権擁護推進指針」(2003,〈平成15〉7月1日付『正法輪』第53巻第7号「悲心」所収)では、「テロ」と「戦争責任」それに「ハンセン病」についての問題提起を行いました。
 また、妙心寺派第103次定期宗議会において当時のイラク問題に関連して「非戦・平和」の「宣言」を行い、引き続き同年12月16日付で「イラクへの自衛隊派遣反対宣言」を臨済宗妙心寺派教団の名のもとに一派に公布しました。さらに、2007(平成19)年9月にミャンマーで起こった「反政府デモに対する軍事政権による民主化弾圧発砲事件」に対しては、妙心寺派第112次定期宗議会、同年10月の定期宗務所長会において、同じ仏教国として平和を願う宣言文を採択し発表しました。
 人間の生きる権利、すなわち生存権の否定という人権侵害の最たるものである「戦争」や「テロ」に対して、私ども仏教者はつねに、人間の尊厳と不殺生戒を根幹とする釈尊の教えに照らして、向きあっていかなければならないと考えます。
 わが国からも、国際協力の名のもとに自衛隊が派遣されていますが、いつ何時攻撃にさらされ、またテロの標的にされるかも知れません。
 これからの教団は、戦争体験をもたない住職方の時代に入ります。しかし、私たち仏教者は、どのような状況におかれようとも、先の大戦の教訓を忘れることなく、戦争がいかに人間の尊厳を傷つけ、人々の生命を無慈悲に奪っていくかということを伝え、不戦の誓いを絶えず新たにしていかなければ、釈尊の教え(真理)に背き、再び過去の過ちを繰り返し、戦争に協力することになるのではないでしょうか。
 つねに人間に不条理な死を強いるテロや戦争こそが人権侵害の最たるものであることを銘記すべきです。

(2)ハンセン病

 末梢神経(まっしょうしんけい)や皮膚が侵される「らい病」は、現在、ハンセン病、またはハンセン氏病と呼称(こしょう)されています。これはノルウェーの医師ハンセンが「らい菌」を発見したことに由来します。
 1940年代には治療薬「プロミン」が米国で開発され、治療法が一挙に改善されました。現在、「らい病」は、遺伝性はなく、感染力の極めて弱い、らい菌による慢性(まんせい)の細菌感染症とされ、発病しても通院治療で完治します。
 国が1947(昭和22)年に特効薬「プロミン」を導入、1951(昭和26)年の学会で、その治療効果が確認されるまでは、この病気に対する治療法が確立されていず、感染を恐れるあまり不治の病とされ、強制隔離(きょうせいかくり)が続けられました。
 国内における「らい予防法」廃止に至る経緯は以下の通りです。
 国が1907(明治40)年に「癩(らい)予防法」を制定、1950年代の諸外国では強制隔離が廃止となっていたのにもかかわらず、1953(昭和28)年の改定「らい予防法」には医師の患者届出義務、らい患者の国立療養所への強制入所措置、らい患者の一定業務への従業禁止等が盛り込まれていたため、かえってこの予防法がハンセン病に対する差別偏見助長する結果になりました。
 日本らい学会は、1995(平成7)年4月22日に総会を開き、ハンセン病が感染力の極めて弱い感染症であるにもかかわらず、偏見に基づく法律の廃止を積極的に求めてこなかった過去への反省を表し、「らい予防」の廃止を求める統一見解をまとめました。このような経緯をへて1996(平成8)年に「らい予防法」は廃止されました。
 国立療養所は全国で13ケ所あり、入所者は2007(平成19)年5月1日時点では合計2,890人、平均年齢は78歳に達していると報じられています。治療法の進歩によって、少なくとも1960年以降、入所者の病は治癒していますが、半世紀を越える隔離によって高齢化してしまったことや頼るべき家族との絆が断たれていること、いまなお社会の偏見や差別感情が根強く残っていることなどにより、ほとんどの入所者は社会復帰をあきらめ、療養所で過ごさざるをえないのが現状です。
 本派としてもこの問題を風化させることなく、ハンセン病患者の過去に置かれた、また、現在置かれている現状を把握し、理解と認識を深め、その苦しみを自分の身に引き寄せて共有していかなければならないのです。

(3)本寺と末寺

 私たちの教団も、宗旨とは裏腹に、教団内の慣行や常識の中で、さまざまな差別意識が内包している可能性があります。
 現代の「宗教法人法」では、法人としての各寺院は、妙心寺を本山とする妙心寺派が包括(ほうかつ)する被包括団体ですが、それ以外の、例えば本山以外の法源地といわれる、かつての本寺とその末寺にあっては、包括・被包括の関係は存在しません。
 すなわち、本派各寺院は一宗教法人として、一様に平等な立場にあり、『宗綱』にあるように、それぞれに独立して教義の宣布、儀式の執行及び社会教化に必要な公益事業を行うことができます。
 しかしながら、現実にはいまだ旧本寺が旧末寺に隷属(れいぞく)関係を強いるところがあるやに仄聞(そくぶん)します。時代錯誤も甚だしく本派寺院挙げて意識の改革を図ることが肝要であると考えます。
 教団構成員の個々の意識改革が全体の意識改革をもたらし、この全体の意識改革があってはじめて旧本寺・末寺の因習(いんしゅう)が解消されるものと思います。

(4)尼僧住職

 仏教は、人間の持っている本能を「煩悩」とし、「苦」のもとであると考えました。釈迦の初期集団(サンガ)は、男性中心の出家集団で、性の問題を煩悩として捨て去り、「仏になる」ことを目標としていました。こういった中で、女性は「煩悩」の根源として差別されてきました。
 専門道場を暫暇(ざんか)され、しかるべき寺院に入寺されても、男僧(なんそう)社会の意識の根底に澱むいわれなき不当な尼僧差別を払拭しなければ、尼僧団の発展はなく、せっかく、尼僧堂を開単した教団としても画龍点睛(がりょうてんせい)を欠くのそしりを免れないでありましょう。
 私たちの宗門にあっては、男僧も尼僧も僧侶としての待遇において平等であり、男女の差別は何処にも明記されていません。

(5)人権に関わる社会問題化されている事件

 直接的に差別という範疇(はんちゅう)には入らないものもありますが、今日新たに社会問題化されているものに、児童虐待、新聞や雑誌などによる名誉毀損、またドメスティック・バイオレンス(家庭内暴力)、セクシュアル・ハラスメント(性的いやがらせ)、パワー・ハラスメント(権力や地位を利用したいやがらせ)、モラル・ハラスメント(精神的ないやがらせ)、インターネットによるプライバシー侵害などの人権侵害があります。これらの問題も対岸視せず、自分の身に引き寄せ考えていくことが仏教者としての務めではないでしょうか。
 特に「いじめ」をはじめ「虐待」の果てに子どもを死に至らしめる親や親族の行為については、人間の尊厳と「いのち」の大切さを説く仏教者として早急に、社会に対して何らかの働きかけをするべきではないかと考えます。

(6)差別戒名について

○戒名とは

 戒名とは、僧侶が戒師(かいし)となって受戒(じゅかい)を行い、釈尊の定めた戒律を持(たも)つ誓いを行った人に、仏弟子となった証しとして与えられる得度名(とくどめい)のことです。当然、それは仏弟子としてふさわしいものでなければならず、一般的には経典や祖師の語録などの語句から選ばれます。
 また、戒名というのは通常「道号」「諱(いみな)」を中心として、「院」「軒」「庵」「斎」といったような各号と「居士」「大姉」「信士」「信女」といった位階とにより成り立っています。
 往々にして差別性があるとして問題にされるのは、この「院号」や「居士」「大姉」といった位階の部分です。「院号」より「院殿号(いんでんごう)」の方が上位であるとか、または、「信士」「信女」よりも「居士」「大姉」さらに「大居士」「大禅定尼」が上位にあるといった位階というものが、そのまま、その人の人格や人間的な価値を表すものとして受け入れられているところに問題があるのです。
 また、信仰的に非常に熱心な人であったのであれば、「院号」であれ「大居士」であれ何がつけられていても何ら構わないのですが、信仰心が皆無であるにもかかわらず金銭にものを言わせて「院号」や「大居士」といった位階を手にするといったことが、戒名を授与することの本来の意味からは、かけ離れたものになっていることも問題です。しかしこれについて、一方では寺院に多額の浄財を寄進することは寺院に対する物的功労であり、信仰的には何ら変わらないいう割り切った考え方があることも事実です。

○差別戒名とは

 戒名で一番問題となるのが差別戒名といわれるものです。これは明らかに差別をするためにつけた戒名です。近世初期以来、被差別者に対してつけられた戒名であり、その元となったのは、社会的身分、経済力、菩提寺への貢献度による位階制によるものなのです。それらは、他の戒名と比較して位階の文字、置き字が故意に略字や異体字を用いてあり、一見して被差別者と判断できるものです。例えば、「霊」を「灵」の文字を使ったり、「禅定門」の「門」の文字に「一」を入れて「閂」にしていたり、「革男」「革女」「草男」「草女」「旃陀羅男」「旃陀羅女」などを位階として使用しているものもあります。
 さらに問題となるのは、これらの差別戒名の問題性が指摘され、しかも問題解消の手順が示されたにもかかわらず、一向に見向きもしない人たちが存在しているということです。差別戒名は、現在の住職がつけたものではありませんが、指摘されながら放置したままであったということに問題があるのです。

○これからの戒名

 これからの戒名にはその必要性の是非はさておき、「愚」「倒」「絶」などの差別性を感じる文字の使用は極力避けるべきです。つける側からではなく、つけられる立場で考えれば、おのずと答えは出てくるのです。職業、身体的特徴、階級、思想などを、他人に知ってもらいたい人ばかりではありません。また、過去帳の添え書きにしても、病気や死亡原因などにも故人の尊厳を深く傷つけるものもあり、そういったことを寺院の過去帳に記録する必要があるのかどうか大いに疑問です。そうした点も踏まえた上で、戒名・過去帳のあり方を見直していく必要を感じます。

(7)生命倫理

 人間の死は、心臓の停止、呼吸の停止、瞳孔が開く、この三大兆候の後に身体が冷たくなっていくことにより確認されてきました。
 「脳死」は、これらの顕著な三大兆候が出る前の段階です。*すなわち臓器提供者(ドナー)の脳機能停止時に、臓器移植を望む人(レシピエント)に必要な臓器を提供するため、「死」の判定を下していこうという考え方で、脳死と臓器移植は明らかに連動していると言えましょう。
 このような考え方に対して、宗教界から脳死は人間の死ではない。また、脳死の段階で、人間を形成している臓器を他の人の生体に移植するのは臓器を「物」として見ている以外の何物でもなく、人間の尊厳の冒涜につながるなどといった意見が出されましたが、1997(平成9)年6月に「臓器の移植に関する法律」(臓器移植法)が成立、同年10月に施行されました。
 仏教の根本教説の縁起観では、私たち人間の生存を含めすべての現象は無数の原因(因)や条件(縁)が相互に関係しあって存在していると教えています。すなわち、四大と五蘊の因縁により人間の身体と心が単なる生命体ではなく、心身一如の「いのち」(霊性)として誕生するのです。そして縁が去れば、この四大五蘊も消滅すると教えています。このようにして私たちは縁によってこの世に存在しているわけです。また「悉有仏性」、自己の仏性を自覚したとき、そこにはじめて人間の尊厳性にめざめることができ、また、他人の尊厳性も認めることができることになります。
 この仏教の生命観に立ちますと、脳死判定のもとに、心身一如の「いのち」 の一部分であるドナーの臓器を切り取り、他の人=レシピエントに移植するということは、いかにも不自然で縁起の摂理と悉有仏性の真理に反すると言わねばなりません。
 しかしながら臓器移植法が施行されてから、本質的な論議は深まらないままに事実が先行しているのが現状です。人間の生命体そのものが臓器移植や遺伝子治療、不妊治療に関する問題によって大きく変貌しようとしている今、派内においては従来の仏教の生命観に立ち返り、さらに論議を深め、社会に対しその見識を提唱すべき時期が来ているのではないでしょうか。

おわりに

 差別は上下及び力(権力)を持つ者と持たざる者、社会的に強い立場にいる者と弱い立場にいる者との関係において、いつでも生じうる可能性をはらんでいます。そこに気づく感性を養うことが、人権侵害に関わるあらゆる差別の解消に向けて大いなる力を発揮するものと思います。
 いかに己事の究明が宗門の第一義であるからといって、この目的達成のために、その過程における一切の現実の社会状況を座視してよいということにはならないと思います。
 私たちが現実の社会に密接に関わって生きている以上、現在に至るまでの人権侵害がどのように形成され、また仏教者としての自分がこの問題とどう関わってきたのか、日々の行動を通じて、深く掘下げ、見つめていかねばなりません。そして自己の良心と照らし合わせ、過ちがあれば直ちに懺悔をし、それを正していくという実践行為が、取りも直さず「人権問題」の解決につながっていけるのではないでしょうか。この『指針』及び『新版人権Q&A』に基づき、即今只今の課題として、各人の真摯な取り組みを要望します。
 そしてさらに今後の取り組むべき課題を明確にするとともに、本派全体への論議と実践になるよう幅広く、各教区、各部支所、並びに本派設立の花園大学、花園中学高等学校、洛西花園幼稚園を包含する花園学園本部、妙心寺派社会事業協会等の関係の諸機関をはじめ財団法人全日本仏教会や「同和問題」にとりくむ宗教教団連帯会議とも連携を保ち、さらに指針を深化させる必要があります。