
本派人権擁護推進本部では、平成20年10月16日~17日にわたり平成20年度秋期本派人権擁護推進委員・教区人権擁護推進員合同研究会現地研修を開催しました。
【年間テーマ】
「性差別について」
【日時】
平成20年10月16日(木)13:45~17日(金)12:20
【研修および宿泊場所】
1日目 現地研修 岐阜県 天衣寺
2日目 現地研修 岐阜県 正眼寺・正眼短期大学
【参加者】
人権擁護推進委員............11名
教区人権擁護推進員.........24名(内代理出席 5名)
本部委員・事務局員......... 2名
合 計...........................37名
【講師】
道樹寺閑栖・服部慧源師
演題「天衣寺設立から今日に至るまで」
【講演要旨】
《天衣寺設立から今日に至るまで》
明治25年ごろにここ天衣寺には尼衆寮というものがあり、その後明治30年に妙心寺派尼衆禅学林が認可されました。他に南禅寺派の女性の禅林がありましたが、現在全国に120人ほどの尼僧さんが居られると思いますが、そのうちの6割がこの尼衆学林を出られた方だと思います。その後南禅寺派の禅林も閉単、この尼衆学林も昭和30年ごろまであったようですがほぼ閉単という形で、尼僧さんの修行の場というのは、本山安居会、岐阜で行っていた地方安居会しかなかったのです。それ以後正眼寺の谷耕月老師が国際尼僧堂を立ち上げられましたが、女性が修行をする場所は他には有りませんでした。
その後平成6年の夏末に天衣寺が鐘楼と土蔵等を残して焼失してしまいました。私も天衣寺の法類の寺でありまして、当時の住職様も一念発起され、何とか本堂を建て直そうと地元の方など7~800近い方からの寄付を頂いて今のお寺を再建したのが平成10年です。そして丁度細川総長に代わられた時に、禅堂を建てようという話しが盛り上がり、臨済宗と黄檗宗の僧堂を建てましょうとなった。そして各派本山、妙心寺派各末寺にお願いして、平成14年臨済宗黄檗宗尼衆専門道場としてこの禅堂が出来上がりました。その年の3月に落慶、4月に僧堂を開単いたしました。その年に掛搭したのが6名、翌年に5名が掛搭し、今日まで29名が掛搭しております。(内11名が留錫中)また、願信のある女性、禅を学ぼうとする女性の学ぶ場所として平成14年の5月から、ここに女性禅学林も設立いたしました。禅学林は今年の9月で86回、通算358名が受講され中には20~30回と参加されている方も居られます。瑞龍寺の老大師がここで提唱され、尼僧堂も禅学林も順調に進んでいます。
先月テレビのドラマのなかで女性っぽい男性の役どころの方が子どもの「男ですか?女ですか?」という質問に対して「私は人間です。女でも男でもない人間です。」と応えました。良いことを言ったなと思いました。ここもそうですが、聖観世音菩薩をお祭りしていますが、「観音様は男ですか?女ですか?」と聞かれることはありませんか?私はそういう時は「男でも女でもない観音様です。観音様とは仏様です。」と応えています。また、開単以来関わっていますがここは瑞龍寺に参禅に行っておりますが、瑞龍寺には男僧さんがおられます。ここにはもちろん尼僧さんがおられるわけですが、この男僧さん尼僧さんというのは区別ですね。私はこの尼僧さんを尼僧として見ないのです。私は修行の僧、雲水として見るのです。瑞龍寺の雲水、天衣寺の雲水というようにそれぞれ一雲水として見るのです。そしてこの雲水さん達が社会に出て僧侶の世界に入ってきたときも、男僧、尼僧という観点で見るのではなく、一人の禅僧として見るのです。我々男僧が一人一人を禅僧として見れば誰が導師をやろうとも関係ないと私は思います。
私達僧侶は赤座布団に床を背にして座りますが、そこから発する言葉はよほど気をつけなければならないと思います。つまりこちらが差別用語、相手を卑下したような言葉を使った場合に聞いた方と言った方ではその捉え方は雲泥の差です。言った方の言葉は水の上に書いた文字です。聞いたほうの言葉は石に刻まれた文字です。言われた方は一生心に残ります。言葉と言うのは常に気をつけなくてはなりません。
人は人として何者にも差別されない、差別しない。差別を許さない信念をしっかり持つべきだと思います。お互いの基本的人権を尊重し、差別の無い世界を築くのが我々禅僧の役目でないかと思います。
【講師】
曹洞宗東昌寺副住職・飯島惠道師
演題「性差別について」
【講演要旨】
《性差別について》
性差別について、最初に不可解な現象、何故そうなるの?ということについて。
①尼僧の尼に当たる部分は男僧の何にあたるのか。一般に僧といえば男というのが定着しており、わざわざ男を冠する必要が無い。これは不可解である。
②お寺の晋山式など大きな儀式、法要において、尼僧は典座、椀頭などで法要での重要な役割に就かせてもらえない。尼僧がいるとしまりが無くなると言われたこともある。
③斎会の後などで男僧の袈裟、衣をたたむよう言われた事がある。
④法要出頭の際に本来は出家した順に並ぶはずなのに、尼僧はいつも列の末にすえられる。
⑤お寺の奥さんは寺の中でしっかり守ってお寺を支えていくのが仕事なんだと教育され、尼僧さん自身も他の寺院の奥さんに対してそのような教育をする。
⑥尼僧は脇導師が出来ない。毎月お勤めに上がっているお宅であっても重要な役をさせてもらえない。
⑦尼僧寺院と男僧寺院ではゼロの桁が一桁違うというのは何故か。尼僧さんのお寺は小さいからこれくらいというのが世間に浸透している。
⑧教区の教区長など宗派の重要な役割に着かせてもらえない。男僧寺院の副住職よりも特別な扱いをされる。
ジェンダーとは社会的、文化的性差のことである。人間は生まれもった時点で男性女性という生物学的性差はあるわけですが、人間として成長していく社会的、文化的影響を受けながら形作られていった性差をジェンダーという。男を一般とみなす社会では、女は人である男にとって主体で在らざる者である。このことから男僧、尼僧の尼というのは男性主体の僧に対する従属的立場から尼と付けられているのではないかと考えられる。これは仏教一般に対して共通して言えるのではないか。これが逆に僧(尼僧)主体に対する従属的立場である男僧と聞くとどう感じるだろうか。尼僧に対しては気づかなかった非対称的な感情を抱くのではないか。非対称的とは言い換えれば不平等ということである。そこが人権感覚なのである。しかし、一般的な仏教の根底にはこのような考え方あるので、今日のような性差別の問題が起こっている。世界には男と女と半々いるのだから、お互いに良きパートナーとしてパートナーシップを図りながら仏教の道を歩いていかなければ、社会の人々に平等を説くと言うことは出来ないと思います。
性差別は性別を指標とする差別行為であり、女性に不利益をもたらす女性差別の場合が圧倒的に多いので、女性差別の同義語として用いられることが多い。仏教会において、特に禅宗において、尼僧というのは従属補完というよりも例外特殊と考えられている場合のほうが多いのではないかと思う。主体が男僧であり本山であり、そこに例外特殊の尼僧があり、従属的な寺族、寺庭があると考えられます。例外特殊として扱っていただく事は、ある意味では尼僧に対する優しさや思いやりであるともとれますが、大本の部分でどう思われているのかが分りません。男女が共に修行をする場所があれば、そこで序列のことなどを学び、地方に帰ってからもパートナーシップを発揮して共にやっていく。そのような流れも今後の世の中、仏教会を変えていくには必要なのかと思う。また、こうした大きな取り組みをしないと現状はなかなか変わっていかないと思う。
人権感覚を磨くと言うのは、主体と従属ではなく平等の関係で、男僧、尼僧の捉え方を考える感覚の部分でどういうことが差別なのかを認識するということである。自他全ての者が平等であると称し、仏教者というだけでなく人間として当然もっている知恵。あらゆる物を完成に導く知恵。先ずは改めてこの知恵を自分の中で考え直し、感覚の部分から知恵を開発していくことが大切である。そうするには既に出来上がってしまっている差別を脱ぎ捨てて考え直す所から始めなければならない。
【講師】
正眼短期大学准教授・後藤安弘師
演題「人権と仏教教育」
【講演要旨】
《人権と仏教教育》
人権と仏教教育について、人権問題にはいろんなハラスメント、妨害、攻撃などがある。どうしてハラスメントが起こるかというと、権力が一番大きな原因である。人間と言うのは権力を誇示したい。自分の力やお金等で人を使う。自分の思い通りにしたい。そしてそれに快感を覚える。気持ちが悪いと言う事はそれを侵害されること。自分が権力を持っているとどうしてもそれを使ってしまう。それは人間の歴史の中でずっとあったものである。どれだけハラスメントを防止できるかというとなかなか難しく学校でもスクールハラスメント〈いじめ〉というストレス発散の為に弱い物いじめなどが起こる。その子ども達に、いかに弱い者いじめをする人が弱い人間なんだと分らせるところに教育の力が必要である。
幸せになる権利、これは人権である。そして幸せになる義務というのはどこかというのが仏教教育の大きな観念である。義務とは何かをしなければならない。つまり全ての人が生まれながらに幸せにならなければいけない。しかしこれが絶対の幸せだというのは存在しない。幸せというものは状況や人によって違い自分が幸せだと思ったらそれが幸せだということ。これがお釈迦様がおさとりになったところの大きなところではないかと仏教教育の中では捉えている。しかしながら、自分が幸せだと思えるそういう心にはなかなかなれないのが実情だと思う。幸せになる為には心を幸せにしていかなければならない。ではどうやって幸せだと思える心を持つのか。心の言語はこ凝る。偏った見方、執着、思い込みなどによって、肩凝りなどのように心が凝って堅くなっていくことから来ている。その心を柔らかくしていくことによって幸せの心を作って行くことが出来るのではないか。では、具体的にどういうことをいうのか。金銭的な苦しみ、様々なハラスメント、病気、災難いろいろな事柄が考えられるが、本質的な苦しみというのは、思い通りにしたいけれど思い通りにならない。欲望を受け入れられない為に苦しみが生まれるという所にある。人間は思い通りにしたいという念が強いのと、受け入れる力が弱いことからそのような苦しみが生まれるのであるが、それを一つでも受け入れる。これが大きな安心を生んでいく。これが仏教教育の課題である。
今仏教教育学という中で、仏教ボランティアに力をいれている。これは人にサービスをしてそれによって喜ばれる。これを一つの人間の生きる糧にして行こうという「サービスラーニング」という理論に基づいている。これを行うことによって子ども達の心の有効性、役に立つことができて嬉しいということを学ぶ中で幸せになる義務ということが実践されていく。
自分が変われば世界を変えられる。受け入れる心によってハラスメントのあり方も変わってくる。つまり受け取る側の受け取り方次第で変わることが出来る。
未来を変えることが出来るといいますが、本来は未来を変えることは出来ません。変えることが出来ないという表現は適切ではないかもしれませんが、人は受け入れることによって過去を変えることができる。過去を受け入れるとは過去を許すということ。今私達が受け入れられないのは過去の事象に対して許すことができない為に現在が受け入れられず苦しむわけですが、過去にあったことは変えられないけれど、それを許す。過去も現在も未来も受け入れるという心を持っていけばこの人権というもの、人に対する優しさというものが出来て来るのではないかと思います。