妙心寺について

臨済宗妙心寺派人権擁護推進指針

本派教団と人権問題

(1)人権擁護推進

 「日本国憲法」は、基本的人権について、第十一条「国民はすべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられる」として、国家がこの基本的人権を保障しています。
 また、第十四条「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において差別されない」としています。
第十一条、第十四条にみられるように基本的人権の侵害は、平等であるべき人間同士が他者を理由も無く劣ったものとして不当に扱ったりする差別、忌避、排除、嫌がらせ、虐待、暴力等という具体的な姿で表れます。
本派における人権(生まれながらにして持つ人間として生きる権利)擁護推進は、これらの人権侵害の解消に向けて、仏教者の立場から、その根幹にある予断と偏見に基づく不当な差別、忌避、排除意識等を払拭していこうとするものであります。
妙心寺派では1978(昭和53)年に内局内に同和委員会を設置、翌1979(昭和54)年12月に、花園会運営委員会で同和問題研究特別委員会の設置が議題となり、さらに1980(昭和55)年1月の花園会会長会議で、おかげさま運動の精神のもとに同和問題へ積極的に取り組むこととなりました。その後、問題の重要性にかんがみ1981(昭和56)年3月17日付けで、同和推進本部を教学部に設置するとともに、同和推進委員会を組織しました。
1982(昭和57)年5月宗務所長会が開催され、同和推進について次のような答申が提出されました。「同和推進は、人類普遍の原理である人間と平等にかかわる重要かつ深刻な問題であり、我々宗門にとって教団の総力を挙げて取り組むべき宗教的課題である。過去における過ちを速やかに修正するとともに、住職はもとより寺族、檀信徒の啓発を図るため同和に関する学習活動を展開されたい。」とあります。
 また、同じく1982(昭和57)年10月15日の教学審議会の答申には「この問題の根本的解決につとめ、宗教上の課題として全住職・寺庭・檀信徒の全員に理解されるために、本派において明らかになった差別的事象の事実を、納得のいくまで徹底的に分析解明し大衆的運動を起こされたいと。」とあります。
 その後、1991(平成3)年4月の同和推進委員会にて「臨済宗妙心寺派人権擁護推進指針(案)」を策定し、同年5月31日の同和推進委員会・教区同和推進委員合同研究会にて、提案し承認を得ました。この指針は毎年その啓発活動の浸透度および諸課題解決への進展度を点検し、見直しを図り常に目標と課題を明確にし、本派教団構成員全員の同和問題に対する更なる理解と認識を深めるために資するよう策定され、この年の7月発行「正法輪」第7号から「悲心」として毎年1回掲載されています。
 1995(平成7)年12月1日に、あらゆる形態の人種差別に関する国際条約(世界人権宣言)が締結され、翌1996(平成8)年1月14日から日本に対して発効、こうした国内外における人権意識の高まりを踏まえ、妙心寺派は1997(平成9)年に名称を「同和推進」から「人権擁護推進」と変更しました。しかしこれは同和問題が解決したからではなく、人権という広い視野に立って同和問題(部落差別)をはじめ、性差、障害者、人種、民族、エイズ、ハンセン病、また子ども、高齢者などに対しての人権侵害や差別の解消を目指し、さらには、いじめ、虐待、自殺、セクシュアル・ハラスメント、パワー・ハラスメント、モラル・ハラスメントなどの現代的課題に対応すべく、人権擁護を推進する必要があると考えたからです。

(2)仏教と人権擁護

 宗教本来の存在理由は、人間の苦悩(不安、不幸)の除去にあります。大乗仏教の根幹である菩薩行もまた、端的に言えば、他人(ひと)の喜びを自分の(わが)喜びとし、他人の悲しみを自分の悲しみとすることにあると言えましょう。極言しますと、私ども仏教者、即ち、本派の住職一人一人が、どれだけ他人の立場に立てるかということに尽きます。
 人権侵害に関わるあらゆる問題は、現代社会の抱える苦悩であります。今、この現実の問題に応えることができるかどうか、私ども仏教者の存在価値が問われているのではないでしょうか。すなわち、この地球上に、他の誰とも代わることのできない命を、今、生きていることの自覚と共に他の人間の人権もどれだけ大事にしていくことができるかということであります。
 私たち一人一人の人権意識の確立が、お互いの人権を護り、そのことが、人権侵害に関わるさまざまな問題を解消することにつなげていくことができると思います。 本派教団は、このことを生活信条として「人間の尊さにめざめ自分の生活も他人の生活も大切にしましょう」と定めています。

(3)本派の宗旨の根幹と平等・差別

 本派の宗旨の根幹に関わる有名な問答が『六祖壇経』に記されています(宗務本所刊『業・旃陀羅』10~13頁参照)。
 六祖慧能が初めて五祖弘忍を訪ねた時の出来事です。
祖曰く、「汝(なんじ)は是れ嶺南(れいなん)の又衒擡(かつろう)なり、若為(いかん)ぞ作仏するに堪(た)えん」
慧能曰く、「人に南北有りと雖(いえど)も、仏性には本より南北なし。衒擡の身と和尚と同じからざるも,仏性に何の差別かあらん」
 嶺南は当時の配流の地、衒擡は蛮族(南方に住む未開の種族野蛮人、昔外国人をいやしんで言った語などの意で、今日では用いない)、そんなお前さんは仏になれないと五祖が応じた。六祖は、人に南北の地があるといえども、仏性にそんな違いなどあるはずがない。蛮族出の私と和尚と出自が同じではないが、仏性になんの違いがあるのかと問うた。  『涅槃経』は、「一切衆生、悉有仏性」(一切の衆生は悉く仏性あり、仏になれる)と教えています。その人の出身地や身分を問うことは、その当時はごく当たり前のことであっても(旧身分制度の存在しない今日では、明らかに差別でありますが)、五祖はそんなことを百も承知で、六祖から一真実の自己を吐露させるために、敢えて、出身地や身分を持ち出したものと思います。そこで、六祖は仏性の前には、誰でも平等であり、出身地や身分といった限定は何の意味も持たないと答えています。
 仏性という絶対的真理の前における平等と、現在社会における限定のある(政治的、経済的又は社会的関係において)平等とでは、自ずからそこに相違があります。
 すなわち、仏性という絶対的真理の前における平等は、政治的、経済的又は社会的関係において平等であるという今日の「人権」の枠を超えた、その前提としての人間の尊厳に根ざしたところにあるということであります。
 五祖・六祖の時代が中国の遥か昔のことでありますが、仏性を体得すれば、悟りを得れば、何らの妄想、分別も存在しないと教えている宗旨の根っこのところで、今日の人権意識、平等感覚と軌を一にするところがあるといえましょう。
 しかしながら、常に己事の究明と社会の教化をモットーに、日々努力を続ける本派の大半の住職は、更に深く自己を見つめるとき、自他平等の世界にはほど遠く、この現実の妄想や分別から来る高下、優劣意識の相対の世界で、自他を区別し、意識的、無意識的のいずれにせよ何時でも人権侵害に関わる「差別」や「忌避」、「排除」に移行し得る日常を過ごしていることに気づかざるを得ないのではないでしょうか。
 本派の『宗綱』によれば、見性悟道も社会教化も全て世界の平和への貢献と実現を目的としています。その根幹は人間尊重、お互いの人権を認め合うことにあると思います。本派の宗旨と平等・差別の問題、あるいは、『宗綱』を通じて、世界の平和への貢献と実現の根底にあるのは、本派の僧侶一人一人が人権尊重の前提である真の人間の尊厳の体得、即ち真の人間性に目覚めることができるかどうかということに尽きるのではないでしょうか。