法話の窓

こころの澱を取り除こう!

 境内を彩る蓮の花が寺を訪れる方々の目を惹きつけ、癒しを与えている。蓮は泥の中から茎を伸ばすものの、開いた花弁には一点の泥も残さない。その可憐で無垢な姿は見る者の心に深く染み入り、極楽浄土の象徴とされている。泥中の蓮は、煩悩汚辱にまみれたこの娑婆(しゃば)(*注1)世界に完全なお悟りを開く様子に喩えられている。

 この春、思い切ってすべての鉢を引っ繰り返し、植え替えをしてみた。するといつの間にか成長しきった地下茎が絡まり合い、立錐の余地もない。さぞ息苦しかったろう。早速これをほぐし、取り分け、新たな土を敷いて最小限のレンコンのみを植え付けた。狭苦しかった鉢が、大きな宇宙であるかの如く生まれ変わった。

 もう一つ、長年放っておいた境内の池を一日仕事で総(ざら)いした。夏場など次々と腹を浮かせて鯉が死ぬのにいたたまれなくなった為だ。取水口を塞ぎ、ポンプで水をすっかり汲み出し、底に溜まった泥をバケツで何十杯と掻き出した。鯉の排泄物がヘドロとなり堆積していたのだ。再び渓流の水で勢い良く満たし、その間幾つかの水槽に移しておいた錦鯉を池に解き放つと、気分は爽快そのものであった。緋色の魚体は活気を取り戻し、伸び伸びと泳ぐ姿に喜びの声が聞こえるようだ。

 

 興祖微笑大師は「少水の魚に楽しみ有り」と仰った。限りあるいのちの時間はあっという間に過ぎ去り、儚く、苦しみに満ちている。私たちの人生は、岩場の小さな水溜りに打ち上げられた魚が真夏の太陽に照り付けられ、今にも干上がる寸前のようなものである。そのような人生に、果たしてどんな楽しみがあろうか?「無い」と答えるのが自然であろう。しかし、そこを敢えて大師は「楽しみ有り」と明快に示された。人が生きる為には、食べねばならぬ。不要となった老廃物は排泄せねばならぬ。生きることがそのまま老廃物を生み続ける定めだ。それは心の(おり)も同じ。生じることは止められない。そのまま放っておけば、心も体もいずれ息詰まってしまう。生活信条第一には「一日一度は静かに坐って 身体と呼吸とこころを調えましょう」とある。濁りきった一杯の泥水を揺さぶり続ければいつまで経っても泥水だ。しかし、静かにその場に置けば泥は沈殿して、澄み切った水に戻るだろう。そしてまとまった泥は取り除いてしまえばよいのだ。

 そうは言うものの、心に染み付いた澱をそう簡単に取り除くことができるだろうか。息苦しく絡み合った茎も、ヘドロの中に行き場を失う鯉も、もしかしたら泥のなかにこそ楽しみを見いだしていたのかも知れない。自分の足元が浄土であるなら、そもそも泥を取り除く必要さえないのではないか。

一枚の座布団(少水)に、背筋を伸ばし、ちっぽけな私(魚)が、宇宙と一体となって呼吸を調えたら、忽ち生まれ変わった蓮や鯉の如く、爽快な心持を取り戻せるだろう(楽しみ有り)合掌

梅澤徹玄

 

*注1―広辞苑 苦しみが多く、忍耐すべき世界の意。人間が現実にすんでおるこの世界。

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