草を許す ~求心歇む処、即ち無事~
今年も猛暑を感じさせる日が徐々に増えてまいりました。梅雨の合間にも、灼熱の太陽の光が差し込んでまいります。かつて松尾芭蕉はこの時期に、「奥の細道」の大紀行の中で栃木県の日光を訪れています。
あらたふと 青葉若葉の 日の光
江戸を発って4日目、旅路の疲れと日に日に増す暑さとで、芭蕉にとって日光を目指す行脚は、気が遠くなるほど過酷だったことでしょう。それなのに、青葉若葉を照らす灼熱のお天道様を「なんと尊いことだ」と感嘆して詠み残しています。
私にはどうしても灼熱の太陽光を「尊いもの」と感じることができません。ただでさえ暑いのに、この時期は境内のあちこちに草が生えるからです。雨でも降ろうものなら一気にその草が一面に茂り、庭木の新芽も勢いよく伸びていきます。暑い中、草を取ったり剪定をするのが大変で、私はずっとこの時期に憂いを感じていたのです。
もう十年前のことです。私が外で草を取っている時に、近所にお住いの東洋医学の先生がお越しになりました。その先生は「環境の自然と人の自然」をテーマに研究を続けておられ、私に「和尚さん、暑い中大変ですね。」と声をかけてくださいました。私は荒い口調で「はい、暑いし草は伸びるし、本当に嫌になります。」と答えました。すると先生は、
「和尚さん、草だって縁あってこのお寺に生えたのですから、しばらく許してあげられたらどうですか?」
と、仰ったのです。思わず私は耳を疑いました。草を許す?私にはこの言葉の意味が、全く理解できませんでした。怪訝な顔をした私に、先生はこう続けられました。
「暑いのもそうですが、草が生えるのも落ち葉が落ちるのも、全部自然の姿です。お寺に草が生えていても落ち葉が落ちていても、それは決して悪いことではありませんよ。」
それは、いつの間にか勝手に苛立ちを覚えていた私を、一瞬にしてなだめてくれる言葉となりました。先生の仰る通り、うだるような暑さも生えてくる草も皆自然の姿であって、許すどころか、何も悪くないのです。寺をきれいに掃除しきれていないことを自分の不精な性格を棚に上げて、暑さのせいにしたり、生えてくる草のせいにする、極めて横柄な私の心に「自然の尊さ」など感じられるはずもなかったのです。
臨済宗の宗祖・臨済禅師は首楞厳経を引用して
「求心歇む処、即ち無事」
と示されております。「求心」とは、外に向かって求める心。我が身を振り返ることなく、常に他に責任を押し付けることでもあります。清らかな境内こそが理想だと思い描いていた私の決めつけを、眼前の草に気づかされました。自分が素直に他と向き合うことができさえすれば、本来何のストレスも無いのかも知れません。「草を許す」ということは、素直に草と向き合うことだと理解することができました。
芭蕉は疲れも暑さもありのままに受け止め、素直な眼差しを決して忘れていなかったから、灼熱の太陽光に対しても「あらたふと」と観ることができたのだと思います。そしてもっと広い意味で、この大自然すべてに尊さを観たのではないでしょうか。
今では私も、暑さや草に対する偏見が無くなったように思えます。「尊いもの」とまではいきませんが、少なくともつむじを曲げることは無くなりました。今年も暑ければ暑いなりに、熱中症に気をつけながら、草が生えていれば、素直に草を抜いています。
岩淺宏観