体験

令和6年度 「私の思い出に残る全国奉詠大会」

 「私の思い出に残る全国奉詠大会」  ~飛騨で御詠歌の花開く~   

都竹隆雄

 平成13年に地元である飛騨で開催された全国奉詠大会が思い出に残っています。

 あの頃は小笠原照道先生が詠鑑で、御詠歌会員が2万人に届くか届かないかの時期ということもあり、全国から大勢の方が飛騨へお越しくださいました。現在のようなオーバーツーリズムもなく、遠方からお越しになった方からも「北アルプスを初めとする飛驒の自然が素晴らしかったです」「御詠歌と観光両方が楽しめました」等の声を聴かせていただきました。会場となった高山市の飛騨世界生活文化センターはその年に新設されたばかりで、気持ちの良いお唱えが出来たのを覚えています。

 私の自坊の支部からは地元で開催されるということで、当時在籍していた全ての会員50名が参加しました。会場には会員の家族や親戚、知人が駆けつけ、奉詠の様子を撮影したり、大きな拍手で応援してくれました。会場は見学自由で近隣の方々が気軽に散歩感覚で来場できたのも良かったと思っています。この大会はもともと浄土真宗が盛んな飛騨の地で臨済宗妙心寺派花園流御詠歌の花が開いた尊い大会でした。

 ご本山での全国大会も魅力的ですが、地方での開催は未知の場所へ出かけられる喜びと、開催地域の盛り上がりがあり、御詠歌の花を咲かせる機会があります。

 今後の全国大会の盛会を祈念申し上げます。

 


 

「私の思い出に残る全国奉詠大会」 ~ディズニーランドへGO!~

惠良真由美

 「奥さん、私たちディズニーランドに行きたいです。」この言葉から始まりました。当時七十、八十歳代の会員さんが多く在籍していた頃でした。「家族での旅行はお留守番ばかりでディズニーランドに行ったことがありません。是非連れていってください。」そういう経緯で第54回全国奉詠大会(東京大会) 会場【東京ベイNKホール】への参加が決まりました。会員の皆さんは御詠歌のお仲間と奉詠しディズニーランドへ行けるとあって大喜びしました。部内の寺庭様方の申し込みも有り合同奉詠という形での参加となりました。それからはお稽古にも熱が入り真剣に取り組みました。お作法も揃えるよう声を掛けあい本番に向けて一生懸命頑張っていました。年齢のこともあり身体のことも気遣い、お互いに普段の生活にも思いやる気持ちが伝わってきました。

 いよいよ本番の奉詠大会、会場には沢山の方々が参加されていましたのでとても緊張した面持ちでしたが、これまでのお稽古の成果を充分に発揮できたのではないか⁉と思います。が、それ以上に無事登壇できたことの嬉しさの方が大きかったと思います。

 楽しみにしていたディズニーランドへも行きアトラクション、ショッピング、ハロウィンパレードにも加わり大はしゃぎ!大満足の様子でした。

 本山での奉詠大会は「有難い気持ちに」地方開催は「楽しい気持ちに」なるとの事でした。どちらにしても、御詠歌を通じて“心をひとつに”共有の時間を過ごせることはとても有難いことだと思います。私自身、現在も人生の大先輩である会員の皆さんとのご縁でたくさんのことを学ばせて頂いております。感謝の一言です。

 

転載厳禁

 


 

「私の思い出に残る全国奉詠大会」  ~苦難を乗り越え唱える岐阜大会~

門脇厚子

 今まで様々な全国大会に参加しましたが、特に思い出に残っている奉詠大会は岐阜大会でした。

 令和元年10月、台風19号とその後の度重なる大雨により、静岡・長野・福島などに多くの被害が出て、交通機関にも影響がでました。

 そのような状況下ではありましたが、全国奉詠大会が岐阜県の長良川国際会議場で開催され、私たち慧日寺支部も参加しました。10月22日午前の登壇のため、前日に丹波を出発しました。

 夕食後、みんなで一つの部屋に集まり翌日の登壇に向け、奉詠だけではなく登壇の入退場の作法まで頑張って練習をしました。当日、今まで以上にみんながよくまとまって、一生懸命奉詠できたと私は思いました。もしかするとアンコールがいただけるかもしれないと祈ったりしましたが、及ばず残念でした。

 台風で交通機関などに甚大な影響が出る中でも、参加された支部がありました。今回の大会に向けて、練習に励まれたことや予定の奉詠時間内に登壇できるかどうかとても不安に感じられていたことと思います。しかしその支部は、不安を感じさせないほど落ち着いて奉詠されました。皆さん心を一つに奉詠されている姿は見事で、なにか胸に熱く込み上げるものがありました。詠鑑先生も労いのおことばをかけておられました。

 このように、みなが苦難を乗り越え御詠歌大会に参加しようと思うことで、活力が沸いてくると確信できた大会でした。

 

 


 

「私の思い出に残る全国奉詠大会」  ~はじめての全国大会~

清水壽晴

 30年前の平成6年私は、はじめて全国大会に参加しました。大会前から、台風の接近が伝えられていた状況で、地元から3支部、約50名の会員様を引率し、飛行機で大分まで行きました。

 まず驚いたのが会場である杉乃井ホテルの広さでした。本館の他に建物があり、一棟一棟が高く、大変立派なホテルでした。受付後、会員様の誘導をしましたが、全国から大勢の参加者がおられ、私の支部の会員様がトイレや売店に行くと見失う恐れがありました。

 開会大会式典では参加者全員で無相教会御和讃や宗門安心章御和讃を唱え、その迫力に圧倒されました。管長猊下や林義泰詠鑑先生のご挨拶などがあり式典は終了しました。

 式典会場から食事会場は正反対の建物への移動で、いくつもの建屋を通り抜けていく構造でした。同じ階上を通っているつもりが、建屋ごとに違う階でした。食事会場は地下にあったと記憶していますが、エスカレーターは怖くて乗れない会員様もいましたし、エレベーターは参加者1200人の大移動のため、なかなか順番が回ってきませんでした。先輩会員より「階段で行こう」と声が飛び交い、非常階段を地下まで降りた思い出があります。食事はバイキング形式で会員様から「これ美味しいよ」とか「食べてみー」と言われて多くのおかずを頂戴しました。

 翌日の午前中が各支部の登壇発表で、現在と同じく課題曲・自由曲の2曲を発表させていただきました。登壇前は緊張した面持ちでしたが、登壇後はホッとした様子が会員様の表情で感じ取れました。今も昔も皆同じですね。

 その後は、別府地獄めぐりをしてもう一泊しました。台風接近で飛行機の欠航が予想されたため添乗員と相談し、急遽ホテルの予約をしましたが、予定していた飛行機が運行したので、当初の日程通り帰山できました。

 はじめての全国大会の懐かしい思い出となっています。


 

「私の思い出に残る全国奉詠大会」  ~御詠歌にありがとうを~

 

木村 はるみ

 ご詠歌の全国大会に私が初めて登壇させて頂いたのは、平成4年10月12日から14日に開催されました第42回全国大会です。場所は妙心寺と京都国際会館でした。課題曲と自由曲で奉詠場所がわかれておりました。

 会員さん達と大型バスで移動いたしました。当時住職であった舅が、花園会本部長をおつとめさせて頂いておりましたので会員の皆さんが口々に「和尚さんを激励するつもりで奉詠させていただこう」と話しておられたのを覚えております。

 いつもは留守番だった私にも姑さんが「貴女もお母様とご一緒させて頂いて、お着物で登壇してね」と言って下さいました。その日の朝は、早くから子供達を保育園に送り京都まで出かけたことがとても嬉しくそして有難くとても心が弾んでおりました。

 住職の母上そしてその妻また副住職の妻の私と3人の寺庭が、こうして会員さんと登壇させて頂いたのはこの時が最初で最後となりました。  この全国大会には登壇者6,600余名が参加、スタッフもあわせると7,000名近くの方々が一同に会し花園流の御詠歌を奉詠なさっていました。その時間はあっという間に過ぎ、何がなんだかわからないうちに帰途につきました。御詠歌で多くの方が集いご縁を頂き、その輪がどんどん広がり大きくなっていくことの素晴らしさを実感したかけがえのない一日となりました。

 その時からするとコロナの影響や社会状況等により現在会員数は減少しておりますが、私達が詠じている花園流御詠歌の根幹となる花園法皇様のみおしえは流祖岩田貞雲師をはじめ諸先生方の美しい旋律にのせ、現在も脈々と受け継がれております。そして又、これからも絶やすことなく伝承されていくことを確信しております。

  心から御詠歌にありがとうを・・・・・。

 


 

「私の思い出に残る全国奉詠大会」  ~憧れの東智月先生~

 

正山照子

 私の地元浜松アリーナで開催された全国大会が、私の思い出の大会です。地元新聞にも「花園流御詠歌全国大会が、7千人規模で当地で開催」と掲載されました。

 その大会で私は、舞台の登壇支部の所に参加の盾を置いてくる役目を仰せつかりました。もちろん装いは着物です。早朝から着付けして、一日中舞台と袖を行ったり来たり、盾を置くのに座ったり立ったりとかなりの重労働でした。

 差し入れの栄養ドリンクを腰に片手を当て、グビグビと飲んでいるところを登壇の会員さんに見つかり「お疲れなんですね、頑張って下さい」と言われたこともありました。

 そんな時、東智月先生が私に優しく声をかけてくれました。

「あなた、お着物で歩く時の手はこの位置に、物を持つ時は水差しを持つように」と…。

 お声もお姿も美しく、私にとってはいつも講習会で遠くから拝見するだけの憧れの東先生。こんなに近くでお話しできる(一方的に聞くだけでしたが)事に嬉しくて、また着なれぬ着物で、ガサツな立ち居振舞いの私を見るに見かねたのだろうと考えると、とても恥ずかしく、複雑な気持ちで東先生のお言葉を拝聴したのを思い出します。

 東先生の訃報を聞いた時、浜松アリーナでのこの場面が、昨日の事のように脳裏に甦りました。

 準師範となり着物を着る機会も増えました。着物の所作も含め、詠歌道に精進しようと思いました。

 


 

「私の思い出に残る全国奉詠大会」  ~地震で被災して~

 

醍醐 千草

 今年元旦の能登半島地震に始まり、台湾、愛媛と地震が続き、思い出した大会がありました。

 平成12年10月6日午後1時半、私の住む島根県東部はマグニチュード7・3、震度5強の地震にみまわれました。市内で4千を超える家屋に被害が出ましたが、幸い寺には大きな被害はありませんでした。しかし、次の日は第50回記念全国奉詠本山大会に参加予定でしたので、余震におびえながら各方面に連絡して、行くべきか否か相談しました。結局、此処にいても何もできることは無いので、予定通り大会出場の為、京都に向かう事になりました。

 10月7日朝、バスに乗り込んだ私たちが目にした物は、無数の屋根に張られた青いビニールシート。普段なら赤い石州瓦の美しい家並みが、寒々としたシートに覆われ、被害の大きさを実感しました。勇んで出発したものの、道路はいたるところ通行止めで、本山に着いたのは午後の奉詠が終わる間際でした。とるものもとりあえず準備し、当日最後の奉詠に臨みました。登壇の時には「地震被災地から来られた支部」と紹介され、奉詠後にも暖かい拍手が鳴り止まなかったことを鮮明に覚えています。その夜は旅館で余震におびえずぐっすり眠る事ができました。

 全国大会は、私たちのように被災した翌日大会に出場という異常事態だけでなく、様々な事情を抱えやりくりして参加しておられます。これからもどうか、暖かい拍手をお送りください。

 

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