体験

花園流御詠歌の歴史

花園流御詠歌の歴史

 大正時代初期、従来の巡礼歌を脱皮し、弘法大師帰依を浄らかに詠いあげ、民衆の心の琴線をゆさぶった新しい詠歌が誕生します。これが大和流御詠歌といいます。

 

 花園流は、岩田貞雲流祖が大和流に伝わる、かたい男性的な手を動かして唱える所作に関心を持ち、これをやわらかく、まろやかな所作に発展考案されました。
 生涯手を以って指導し、作曲され、花園流といえば所作のある流派と全国的に認められ一大特色でした。本山龍泉庵・釈仏海老師の新作、即ち三和讃、三詠歌に所作及び節付をして、昭和十一年、無相教会の前身となる大慈教会が結成されることになりました。


 その後、昭和二十五年に花園流無相教会と改め、現在約一万一千人の会員を擁するに至っています。

花園流無相教会のあゆみ

 かねてから、臨済宗独自の詠歌和讃を創り、その奉詠を通じて禅の心を一層深めるとともに、広く社会の人心浄化のたすけをしたいとの願いがありました。
中でも東京の龍興寺住職岩田全磨・貞雲ご夫妻は熱心にその布教の必要性を説き、大正13年の春には、開山無相大師さまの御徳を奉讃して新しい詠歌和讃を広めたいと発願されるに至りました。

 

 昭和10年に、本山塔頭龍泉庵の住職であった釈仏海老師の賛同共鳴のもと、妙心寺の三詠歌や開山大師の御和讃など次々と作詞していただき、岩田貞雲先生が所作、節付けをされ、ここに多年の宿願がようやく成就して、花園流の基盤ができたのです。

 

 昭和11年には、釈仏海老師を総裁に迎え、本部を龍泉庵に置いて「花園流大慈教会」が結成されました。
岩田貞雲流祖が全国各地を巡講して指導にあたられ、会員の数も年とともに増加していったのですが、大戦の勃発により、一時停滞せざるを得なくなりました。

 

 しかし大戦が終わると教会再興の機運が高まり、昭和24年の春頃から、全国各地に支部結成が相つぎ、岩田流祖の高弟、東海宗益、津田宗徹をはじめとする師範、準師範が春夏秋冬、各地の要請に応じて指導と普及に尽瘁されました。
 

 その成果が実を結び、翌年の昭和25年4月には「花園流無相教会」として本派直属の教会となったのです。また、東智月師範が花園流独自の楽譜を創作されるに及んで詠歌和讃の普及が一段と進み、質的にも飛躍的な発展をみるにいたりました。

ページの先頭へ