禅の小窓

とはずがたり

第3回「我が身を省みて」

 『衆生無辺誓願度しゅじょうむへんせいがんどは、四弘誓願文というお経の一節。この世の一切の生きとし生けるものを必ず救ってみせるという誓いの句です。私たち僧侶は毎日この誓いを唱え、自らの行動がそれに適うように精進しています。しかしながら、実際問題として言うは易く行うは難し。自分自身すら、ままならない状況が続く毎日。それでも今自分にできることは何かを考え、一つ問題提起をしてみたいと思います。
 私たち人間は生きています。生きるためにはエネルギーが必要で、それは他の命を頂くしか方法がありません。現在の日本は飽食の時代と言われています。食べることに困ることはほとんどありません。むしろ如何に美味しくお洒落な料理を食べられるかに苦心し、有名な料理人が作る高級料理を頂くことがステータスになっています。一見するとそれはとても良いことのように感じます。しかし、その裏で犠牲になっている生き物たちにとってはどうでしょうか?行き過ぎた欲求はとどまることなく、我々自身の視野を狭め、果ては命を頂くという行為が自らの顕示欲を満たすために使われてはいないでしょうか?
 『生き物の死にざま』(稲垣栄洋/2019)には我々が謳歌する現代の裏で、悲劇に見舞われている様々な生き物の生涯が描かれています。その中でもニワトリの一生は、とても残酷で過酷なものです。

 

生きたまま首を切られて死ぬ。
それが、彼らの死に方である。(『生き物の死にざま』)

 

 ショッキングな表現ではありますが、これが現実です。人間に食べられるためだけに改良され、暗く狭い養鶏場で育つ。そして出荷される時、それが彼らが初めて日の光をみる瞬間なのです。とかく人間は我儘で勝手な生き物です。自分たちの都合の良い方へ良い方へと向かっていく。もちろんそのおかげで、現代の豊かさを私自身も享受しています。しかし今こそ、この世の中に生きる全ての生き物たちと向き合う時ではないでしょうか?人間の権利ばかりを主張するのでなく、一切衆生の声なき声に耳を傾ける。今日も「衆生無辺誓願度」と唱えながら、苦虫を嚙み潰す夕食のあと。

金井恒道

 

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