法話の窓

「移ろいのただ中へ」

 「(おち)(あゆ)」をご存じでしょうか。産卵のために川を下る鮎のことです。浅い瀬に黒々と群れ集うその姿は、秋の深まりを告げます。

 鮎は年魚とも呼ばれます。秋、川底の()(れき)に産みつけられた卵は孵化し、稚魚は流れに乗って海へ下ります。冬を海で過ごし、春に川を遡り、夏は岩に付いた藻を()んで育ち、そして秋、生まれた流域へ戻って産卵し、一年の生涯を終えるのです。

 仏教には古くから、無常迅速を説く()があります。「少水の魚の如し、(ここ)に何の楽しみか有らん」。一日が過ぎればその分いのちも減ってゆく、それはあたかも干上がりゆく水たまりの魚のようなもので、ここに何の楽しみがあろうか―そう嘆くのです。いのちをつないで最期を迎えようとする落鮎は、まさに「少水の魚」でありましょう。

 

 ところが妙心寺第二世・(じゅ)(おう)(そう)(ひつ)(ぜん)()()(みょう)(だい)()・一二九六~一三八〇)は、これを見事に転じられました。

 

 「少水魚有楽」── 少水の魚に楽しみ有り

 

 師の(かん)(ざん)()(げん)禅師との問答が伝えられています。授翁禅師が「もはや畜生界には堕ちますまい」と申し上げると、関山禅師は「なぜ、あえて畜生界へ入っていかないのか」と問い返された。移ろいから抜け出すことが悟りなのではない。移ろいのただ中にみずから身を置いてこそ、人を救い、おのれも救われる―授翁禅師は三度礼拝したと伝えられます。

 さらに「では、どのように人間界と天上界を救うのか」と問われ、こう答えます。

 「ブラブラ歩いて流れの大本に行き着き、腰を下ろして雲が湧き起こるのを看る」

 力まず、遠くを目指さず、いま歩く道をただ歩く。刻々と姿を変える雲を「消えゆくもの」として惜しむのではなく、「いま湧き起こる一瞬」として感得しながら、無心にただ腰を下ろしている。

 みずから移ろうはかないいのちでありながら、いまこうして生かされている―その喜びが、ここにあります。

 

 落鮎は秋の季語でもあります。

 

  落鮎や流るる雲に(せき)はなく   (たか)()(しゅ)(ぎょう)『句集 第九』永田書房

 

 鮎は流れに乗り、季節にしたがってただ下ってゆく。雲もまた誰にも止められず、形を変えて流れてゆく。堰をつくって抗おうとするのは、いつも人間の側の都合なのです。

木曽川下流域では、サギやカワウは産卵中の鮎に手を出さず、産卵を終えて流れてくる鮎を待つといいます。餌の枯渇を避ける自然の知恵と説明される以前に、鮎への敬意に思えてなりません。移ろいのただ中で、それぞれの命が見事に輝く瞬間が垣間見えるのです。

 

 少水の魚に楽しみ有り―衰えや不足のただ中にこそ、いまここを生きるしあわせがある。人生にもまた、その季節は巡ってきます。老いも、病も、思うにまかせぬ日々も―水の減りゆくその中に、確かに楽しみはあるのです。

今井昌秀

ページの先頭へ