法話の窓

「友人から譲り受けた万年筆」 

 「万年筆を使おう。文豪の原稿や書簡が今に残るように。時間が経過しても消えることはないから」と恩師から伝えられました。

 以来、使ってみるとこれが意外に扱いづらく難儀しました。ところが使っているうちに次第にペン先が丸くなって書き手の癖のままにとても使いやすく重宝しました。文豪気分に酔いしれたこともありました。

 なのに・・・私の手から万年筆は離れました。というのも利き手を大ケガして神経が麻痺してしまい、それからボールペンを使うようになったからです。 

 

 あれから十八年、忘れかけていた万年筆の醍醐味を思い出し、かつて使用していた万年筆はどこかに消え去り、あらためて新調しました。しかし以前のようにうまく扱えないことに落胆してしまったのです。どうやら万年筆との会話が閉ざされてしまったようです。万年筆も以前のように寄り添ってくれないことに一抹の孤立感すら味わいました。

 「ああ、やっぱりダメか」と思いながら、自分の今の状態を知り、書きやすいボールペンに戻ってしまうか、万年筆に慣れるように使い続けるかのどちらかに心が揺れてしまいました。このような思いはどちらが正しいのかわかりませんが結局、私は前者の方を選びました。ケガした利き手にまたストレスを与えるのがイヤだったからです。

禅の書物 『景徳伝燈録』には

  「心は万境に随って転ず、転ずる処、 実に能く幽なり」  

とあります。 心は環境によってコロコロ変わっていく。その変わったところこそに趣があるというのです。

 ある日、旧友が私の万年筆の話を聞きつけ、兵庫からわざわざ愛媛まで駆けつけてくれました。彼が父親から受け継いだ何十年と使われたペン先も丸くなった書きやすい万年筆を譲ってくれたのです。そこには「友情は二つの中にある一つの魂」というメッセージが添えられていました。

とても嬉しくて、励まされた気持ちでした。

  寒空に 

    筆舌尽きぬ

        わが友と   

 と、彼のメッセージのお返しに俳句ができました。

 筆舌尽きぬとは、彼が父から受け継いだ万年筆は尽きることなく、また彼との語り合いも尽きることがないという心境で、同時に先ほどの前者の思いから転じて、後者の思いに様変わりしています。

 その後、彼からコメントが届きました。

  「多田さんの感覚のない右手は神経というエゴを超えた〈ただ、描きたいから描くという行為〉を発揮できる天分のツールです」と。

 おそらく彼は感覚が麻痺した利き手には、飾りがないんだよと伝えたかったのです。それは不自由さを伴うけれども素朴さと素直さを表現できる天分のツールだという思いが込められていたのでしょう。

 神経が麻痺して、自己主張もできない利き手。そこには飾り気もなくその素朴さと素直さのままにペンを走らせれば、それもまた幽なりと…彼は教えてくれたのです。

 長年にわたり、彼の父・彼・私と受け継がれた万年筆は、書き手を選ばず、あるがままにそれぞれの癖を受け入れています。

 今では、彼から頂いた万年筆同様に新調した万年筆も丸く転じながら活躍してくれています。

多田曹溪

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