法話の窓

091 千の風になって

 最近、ご葬儀の会場でよく聞こえてくる音楽があります。秋川雅史さんの歌う『千の風になって』という歌です。有名な曲になりましたから、きっと皆さんも、一度は口ずさんだりしたことがあるのではないでしょうか?

 実に美しいメロディーですし、その歌詞に心打たれた方も多いと思います。実際、かけがえのない最愛の方を失い、悲嘆に暮れる日々を過ごした方々の中には、この曲によって心癒され、救われ、勇気をもらったという方も大勢いらっしゃることでしょう。

 でも、どうでしょう。本当に人は、亡くなったら<風>のようになれるのでしょうか? どんな人でも<風>になって、自由に大空を吹きわたり、生きている私たちを見守ったり、目覚めさせたりすることが出来るのでしょうか?

 私は、そうではない、と思います。「生きている時でさえなれなかったのに、死んだからといって、今の自分が簡単にそうなれる訳がない」・・・そんなふうに思えてなりません。

 もし、自分が死んで<風>のように自由自在になれるのなら、いっそのこと、今すぐにでも死んでしまった方がよほど楽ですし、きっと世の中のためにもなることでしょう。でも、そのように都合の良い道理などないはずです。

 では、人が亡くなったとき何になり、いったい、どこへ行くというのでしょうか? そして、残された私たちに対して、どのようなことを願うというのでしょうか?

 私は思います。・・・「生きている今こそ、<風>のようにならなければ・・・」と。

 この曲の本当の題名は、実は「千の風になって」ではなくて「千の風になれ!」なのではないでしょうか。いま生きている人たちに対しても、すでに亡くなってしまった方々に対しても、風のように自由自在になって、光のように暖かく照らし、ダイヤのように美しく輝き、鳥のように誰かを優しく目覚めさせ、星のように誰かを静かに見守る・・・。生きている今こそ、このように「命」を使ってゆこうとする自覚を持ち、少しずつでも自分を磨いてゆかなければ、故人を<風>のようにすることも、自分が<風>のようになることも出来やしないのではないか、と。

 もし『千の風になって』を聴いて、「どうせ死後は<風>になるのだから、これでも良いかなぁ」とか、「勤め励まなくても、見守って助けてくれるはずだよね」などと思い違いをしてしまうのなら、それは、せっかくこの世に戴いた「命」を粗末にする「言い訳」にしか過ぎません。

 この歌を、単なる「気休めの歌」にしてはならないのだ、と、私は強く感じます。

徳重寛道

ページの先頭へ