法話の窓

088 好き嫌い

 小学生の頃の私のあだ名は「ぜっぺき」でした。クラスにたった一人の後頭部の形がその由来です。絶壁は事実なので反論できず、訥々とした方言でしか話せない子供たちが、東京弁で理路整然と淀みなく話すヨソ者をペシャンコにするために考案したあだ名です。私はぜっぺき頭を嫌いました。

 中学校低学年の頃の私のあだ名は「モンキー」でした。矮小な体つきとドングリ眼、そして剽軽さがその由来です。そのあだ名は、私を攻撃するためではなく、親しみが込められていましたが、私にとっては屈辱的でした。

 「モンキー」というあだ名の由来の一つである「チビ」や「ドングリ眼」は、「ぜっぺき」と同じように事実ですが、剽軽さは、いじめを避けるために採用した態度なので、私の苦渋を背負っていました。

 男らしくなりたいと思う自分が、いじめを恐れて剽軽さを演技している自分を許せず、その葛藤に苦しんでいる自分を情けないと思っていましたから、「モンキー」というあだ名は、自ら望んで獲得したと言ってもよいのですが、私のコンプレックスを象徴するものだったのです。私は背の低さを嫌い、いじめを恐れて演技をしている自分を嫌いました。

 定時制高校に通っていた頃の私は、向学心がありながら学習に打ち込めない自分が嫌いでした。異性に強い関心をもち、情念に苛まれる自分を許せないくせに、好きな女性に声もかけられない臆病さを嫌っていました。地位や名誉や権力を嫌悪しているくせに、それらがなく、到底得られそうもない自分の不甲斐ない現状を悲嘆していました。そして、そのような矛盾だらけの自分自身をこの世から抹殺したくなるほど嫌っていました。そんなときに『無門関』に出会い、禅仏教を学び始めたのです。

 禅の問題(公案)集『無門関』には、明上座という修行者が達磨さんから六代目の慧能禅師に「不思善、不思惡、正与麼の時、那箇か是れ明上座が本来の面目(善を思わず悪をも思わない、正にその時の本来のあなたとはどのようであろうか)」と問われて大悟した一話(一則)があり、当時の私の状況にピッタリでした。

 自分自身を好いたり嫌ったりするのは、是非善悪優劣損得などの価値判断の物差しを自分自身に当てる(分別する)からであり、もし、物差しを用いなければ好き嫌いの対象ではなく、私は私のあるがままのはず。それこそ本当の自分に違いない。それを問うために出家し修行することにしました。

 やがて、達磨さんから三代目の僧璨禅師の『信心銘』に「至道無難、唯嫌揀擇(究極の道は難しいことはない、ただ選り好みすることを嫌えばよい)」という語に出会いました。そこで私は、矛盾だらけな自分自身を嫌わず、矛盾だらけのままの私自身とズーと、つきあう覚悟をしました。あるときは囚われ、あるときは手放し、勝手気ままに好いたり嫌ったりして、とても気楽になりました。

岩村宗康

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