法話の窓

086 お金の重み

先日、名鉄名古屋駅に降り立った時のことです。ものすごい人々の行列で、警備の方までが出ています。いったいなんだろう、この行列は?と思い視線を行列の先へ移してみますと「本日、大安吉日」と書かれた立て札が目に入り、その先には宝くじの販売店がありました。

 私は足早にその脇を通りすがり、タクシーに乗り込んだのですが「ここで売っている宝くじは、当たる確立が高いですよ!」とタクシー運転手さんの言葉を聴きながら、ふと私は、何年か前に宝くじが当たったばかりに人生急転落をしたというテレビ番組を思い出していました。

 とんだ大安吉日です。よく考えてみたいと思います。皆さんお金さえあれば幸せになれると錯覚しているけれど、急激にお金を手にして本当の幸せな人生を切り開いていける人などほとんど無いと思います。大方はお金に振りまわされて、人生を誤るだけ。それにお金のあるところへ集まってくる人は、金目当ての人だけ。金目当てだけの人は尊敬できませんね。宝くじは、買ってもいいと思いますが、要するに夢を買うゲームと思ってほどほどにしておいたほうがいいのかもしれません。要するに夢を買う。あまり期待しすぎないほうが得策なのかもしれません。

 さらに失笑してしまった事に、先程の行列の間に立札があり、「本日大安吉日」と書かれてありました。大安吉日に買ったら当たるというのでしょうか。大安吉日に、棚ぼた式に、ぬれ手で粟よろしく、大金を手に入れようと遠くから駆けつけ、大切な時間を何時間も浪費する。なにか割り切れなく勿体ない気がしてなりません。

 お金を手にする相応しい努力が払われたか、どうか。昔から「泡銭は身につかない」と言われますが、それを手に入れた軽さと同じ軽さで、みんなどこかへいってしまうばかりではなく、かえって金ゆえの災難を招きかねないと思うのです。我欲を満足させる方向にしか使わず、そして欲はとどまるところを知らずエスカレートされていくものであり、その欲の奴となっている人々が、むしりとりに集まって来るから、不幸な人生しか展開しようがないのです。

 お金を手にしたからには、本当にお金の価値が生きるような使われ方が望まれます。私のためだけでなく、他の人の幸せにも繋がる使い方が望まれるのです。

 同じ千円でもその重みに天と地の開きがあるのではないでしょうか。何の努力もなしに手に入れたお金は、風に舞う枯葉のように、たちまちどこかへ吹き飛んでしまうでしょう。もし何らかの努力がなされているとしてもその内容がどの方向へ向かってどんな形でなされているかで、大きな開きがあると思います。同じ汗を流しても、他人を苦しめ、踏み台にしてというのでは、やはり不幸を招く種としてのお金にしかならないでしょう。誠実な努力が注ぎこまれての千円は、大岩のように重く動かないであろうし、最も生きた形で使われる事になるでしょう。

澤田慈明

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