法話の窓

084 露のいのち

 娘が逝って(行年32歳)、3年を迎えようとしている。
「時が、悲しみを癒してくれる」とは言うものの、京都から送られてきた遺品は、梱包されたままで、殆ど手がつけられていない。
 青天の霹靂、全く思いも依らない、突然のことであった。親として、苦しみ悩んでいる娘に思いが至らなかった不明を恥じるばかりである。
 彼女は中学生の頃より、社会福祉の道に志し花園大学卒業と同時に「社会福祉士」として、京都府下の知的障害者施設に就職、社会福祉の道を歩み始めた。勤務の傍ら、寸暇を惜しんでボランテイア活動にと全力投球の人だった。
 京都社会福祉士会にあっては、最も若い理事として「成年後見」の問題に取り組み「京都権利擁護センターぱあとなあ」のスタートにも尽力した。
 大学の恩師 西村恵信先生より頂いた弔問のお便りに添えられていた一句。

    地に吸わる までのいのちを 露光る (千田杏月)

  彼女の、短い一生を、如実に現わした一句として、ありがたく頂いた。
 彼女にとって、学びと現実のギャップ、どんなに頑張ってもどうにもならない体調不良、職場に於ける人間関係の悩みには、耐えられないものがあったことだろう。逝ってしまったのは、少し休養して再出発を期した矢先のことだった。
 彼女の最期の面差は、安らかで、美しかった。まるで花嫁のようだった。それが親にとって、せめてもの慰めだった。
 年間の自殺者は、8年連続3万人以上。毎日、平均約90人を数えている。
「いのちの尊さ」は、あらゆる機会に説かれ、その認識度は低いものではないはずなのに前述の数字だ。

「本人の精神状況が極度の抑圧にあり、考えるゆとりや、助けを求める心の力をも失わせている状態のとき、自殺に追い込まれる。」(注1)と言われている。

 自殺防止には、
①「いのちの電話」などのような「契機」の提供と支援活動による『援助者との関係性の回
復』
②「生かされている、尊いいのち」の大切さ、「人間観」を家族同士が実現するような啓蒙
教化による『安心感の回復』
③『自分の意識の偏りに気づく機会があること』が必要である。(注2)
  と言う。

 長崎で葬儀をした関係で、ときを経て京都で「お別れ会」を開いて頂き、70~80人の集まりとなった。こんなに多くの方々の支えがあったのに。ボランテイア活動を通して「生かされているいのちの尊さ」に触れていたはずなのに「自分の意識の偏りに気づく機会」を失っていたのか。いずれにしても「家族」として何もしてあげられなかった責任を逃れることはできない。電話は出ない。それならばメールがあったではないか。一人にしないで、無理にでも、しばらく郷里に連れ帰って、一緒に過ごすべきではなかったか。悔やまずにはいられないことばかりである。

 これからは、娘の自死を無駄にせぬよう、親として、布教者(僧侶)として、一層「いのちの尊さ」を説き続けていくことと、思いを新たにしている。

※(注1)(注2)~「自殺についての仏教の視点」中野東禅 参照

微笑義教

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