法話の窓

069 衆生本来仏なり

衆生本来仏なり 水と氷の如くにて 水を離れて氷なく 衆生の他に仏なし

白隠禅師坐禅和讃の一節です。
私の心の中に仏様がいらっしゃいます。
私と仏様とは、まるで水と氷のようなものです
水と氷は別なものではないように
本当に素直になった私と、仏様とは別なものではありません

仏とはあらゆる「いのち」を育む、根源的なものです。大いなる「いのち」です。その「いのち」の一しずくが私の中にも滔々と流れているのです。

 盛永宗興老師が花園大学の学長をされていた時の話しです。学生だった私達の前でこんな話しをされました。

「いいかい、君たち。君たちの命も、樹々の枝に若葉が芽吹くことも、雨の一粒も、月の満ち欠けも、みなひとつの「いのち」の現われなんだよ」とおっしゃいました。

私はそれを聞いた瞬間、(そうか、あの葉っぱの一枚も、空の星も、道ばたの雑草も、私の「いのち」と繋がっているのか。それはとても素晴らしいことだなぁ。この世界には、私が感じることのできるこの「いのち」に満ち満ちてるのかぁ)と感動したことを覚えています。

永嘉玄覚禅師の「証道歌」の一節です

一法遍く含む一切の法
一月普く現ず一切の水
この世の生きとし生ける全てのものが、大いなる「いのち」の現われ。
一つの月があらゆる水面に映るように。

 わたしと仏は別のものではないのに、なぜわたしの心は、ひねくれささくれ立ってしまうのだろう。なぜわたしの心は、わたしやわたしの回りの人を傷つけてしまうのだろう。それは、鏡のような心が曇って、本来の心を忘れてしまうからなのではないでしょうか。

 人は死を目の前に突きつけられた時、否が応でも「いのち」を感じさせられしまうことがあります。それは今まで鏡を曇らせていたことが、本当は取るに足りないちっぽけなものであることに、本能的に気付き「いのち」の輝きだけに焦点が向けられるからなのかも知れません。

 あるホスピスにOさんと言う四十代の男性が入院していました。Oさんは自分が末期のガンであることも、余命あと数ヶ月であることも告知されていました。私が初めてお会いした時の印象は、取っ付きにくい人だというものでした。「こんな病人の所に来て、何が面白いの?」と嫌みを言われたのが、会話の始まりでした。ただ、病院には男性のスタッフが少ないので、よい話し相手になると思われたのでしょう。少しずつOさんと私の距離は縮まっていきました。その病院では、最上階のバルコニーだけ喫煙が許されていました。私はOさんがタバコを吸う時、車いすを押してよくそのバルコニーに行きました。バルコニーで家族のこと、若い頃のことなど色々な話しをしました。ある日、いつものようにOさんとバルコニーにいた時のことです。「今日は良いことがあってね」と言われました。

 どんな良いことがあったのかといいますと、Oさんが今日の昼頃ここに一人でタバコを吸いに来ると、一人の男性がいました。その男性は見た目にも何かに追いつめられて深刻な顔をしていたので、Oさんは思い切ってその男性に声をかけました。その男性は訝し気にOさんを見ていましたが、世間話の後ポツポツと自分のことを話し出しました。仕事をクビになってからは生活も乱れ、ギャンブルに手を出しサラ金に借りたお金は、雪だるま式に増えてしまい、それが原因なのか妻は子供を連れて家を出て行ってしまった。何とか借金を返して、妻子にも帰って来てもらい、元の幸せな生活を取り戻したいと願っている。そんな時、その男性の所に、昔の遊び友達が悪い誘いを持ってきたのです。借金を肩代わりする代わりに、暴力団の仕事を手伝えと行って来たのです。今日、男性はバルコニーで、その悪い仕事の手伝いを引き受ける気持ちを、固めていた所だったのです。それを聞いたOさんは男性に言いました。「俺は末期のガン患者だ。ここから出る時は死んだ時だ。もし俺が病気になる前に君と同じ状況になったら、家族の為にどんな悪いことでもしていたと思う。けれど、もし君が悪いことをして借金を返しても奥さんや子供は喜ぶかなぁ。俺なんか病気になって家族に迷惑をかけ情けなくて、一人枕を噛んで何回泣いたか分からないよ。君は健康だしどんな苦労をしたって、真面目に正直に働いてやり直せるじゃないか。」男性は暫く考え込んでいたそうですが、「わかりました。もう一度、真面目にやり直してみます」といってその場から立ち去ったそうです。

 Oさんは「俺はこんな病気なって誰の役にも立てないって思っていた。でも今日、少しは人の役に立てたって思うと嬉しくてね」と何とも言えない優しい目で言われました。Oさんは仏様に見えました。

 人は結局目に見えない何かと繋がっているから、自分以外のものの役に立ちたいと思うのではないでしょうか。Oさんは死を見つめることによって、心の鏡に映る余計なものが自然に洗い流されてしまった。そして、病床の極限状態にありながらでも、人の役に立つ喜びを見いだされたのではないでしょうか。そして、「大いなるいのちに、抱かれている」こと実感されたのではないでしょうか。

 私達はとかく、生きていくのに必要のないものまで、大事に抱え込んで心を氷のように固めてしまいがちです。本当に必要なものだけに焦点を当てると、盛永宗興老師のいわれた「いのち」に誰もが目覚めることができるのではないでしょうか。

 余談ですが、Oさんが亡くなってしばらくした頃、病院からOさん宅に電話がありました。件の男性がOさんにお礼が言いたいと病院に訪ねて来たのです。その男性はもう一度、家族で暮らすことを目標に仕事に就き、忽忽と借金を返していて、そんな男性を見て、妻子も返って来たそうです。あの時、Oさんに声をかけられていなければ、今頃はとんでもないことになっていたであろう男性は、Oさんの位牌の前で涙を流しながらお礼を言われたと、奥さんから伺いました。

青井直信

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