法話の窓

063 三つ子の魂百まで

 夏になりますと各地で緑陰禅の集いが開かれます。私のお寺でも、小中学生と保護者参加の「禅の集い」を八月一日・二日・三日の三日間の日程で毎年開催しています。今年で二十八回を数え、延べ千名余の参加がありました。私は募集の挨拶で、日本の公立学校では宗教教育が施されていません。又、家庭教育にあっても大部分は不十分であります。従って子供は宗教的なしつけ、宗教情操の涵養とは、ほとんど無縁で育ってゆきます。

 欧米諸国の人々と日本人との宗教に対する感覚の大きな相違は、ここに最も大きな原因があるように思われます。

 「三つ子の魂百まで」といわれるように、幼児、児童の教化は最も大切であることはいうまでもありません。殊に家庭が大きく変化し、家族が分化してゆくとき、ますます家庭での宗教的しつけは望み難く、又、子供を非行化する社会悪はつのるばかりです。ここに寺院における「坐禅会の開催」が強く望まれるわけがあります。この機会にいちど子供さんたちを参加させて下さい。「なるほど」と感じられることがあると思います。

 と書いて保護者に宗教教育の大切さを伝えます。西洋の諺にも「宗教のない教育は賢い鬼をつくる」とあります。賢い鬼は社会を破壊することはできても社会を建設することはできないのです。

 日本は明治以来、宗教を無視した公教育を行ってきたので賢い鬼が街中にいっぱいいます。そして、ここに今日の憂いがあります。賢い鬼を無くすためには、豊かな宗教情操を養うことが肝要であります。「三つ子の魂百まで」といわれるように、幼少時代の性格は一生を支配します。だからこの時期に神や仏、人間を超えた絶対者と共に生きているという確信を抱かせることが大切なのです。

 こんなお話があります。月光が皓々と冴え渡る美しい夜のことでした。ある貧乏な男が五歳の男の子の手を引いて、川の土手を散歩していました。その土手の下の畑には、沢山のスイカが実っていました。男は子供にスイカも買ってやれない程の貧乏が情けなくなり、「こんなに沢山あるんだ。一つくらい失敬したってどうってことないだろう」そう考え辺りを見回すと自分たち以外には誰一人いません。「よし、今のうちだ。おい、父ちゃんはな、あのスイカをもらってくる。今夜は久しぶりにスイカが食べられるぞ。お前はここで待っていろよ。もし誰か来たらすぐ知らせろよ」そう言って下へ降りていきました。そしてスイカに手を触れた途端、わが子が叫んだのです。「父ちゃん見ているよ」「え、だ、誰が」「ほら、お空でお月さまが見ているよ」その一声で、男はハッと我に帰りました。「そうかお月さまか。なるほど違いない。お月様はお見通しだな。いや悪かった。お月さまがわが子の口を借りて、俺に注意して下さったんだな。いくら貧乏でも盗みは悪いことだ。」

「父ちゃんが悪かった。ごめんよ。もう二度とこんな馬鹿なことはしないからな」そういうとわが子の手を引いて帰って行きました。わが子の一言で即座に反省し、悔い改めたその心、それが「仏心」であり、一般的には良心ともいいます。

 私どもの祖先がそうであったように、外国では今日でも、ここをきちっと押さえて子供の教育にあたっています。無宗教教育に育てられてきた今日の日本の人々には、その大事な事がわかる人が少なくなってきています。

 海外勤務の商社マンが、子供の誕生会に現地の子供達を招き、食事をご馳走してコーヒーを出したところ誰も飲まないのです。そこで母親が「さあ、コーヒーをどうぞ」と勧めたところ、子供達は異口同音に「ママが子供はコーヒーを飲んではいけませんから」と言います。そこで日本の母親、うかつにも「でも今日はママさんがおられませんから」というと、子供達は「神様が見ておられます」と答えたそうです。誰が見ていなくとも神さま、仏さまが「人の眼」を超えたなにものかがいつもみておられるという確信を抱かせることが大切で、これほど強い悪の抑止力はないのです。また、苦境に立たされた時、どんなに苦しくとも神さま仏さまがご先祖さまが見護っていて下さるという確信があれば、心が安らぎ救われるのです。この確信を幼少の頃の純真な心に植え付けることは大切な事です。

 皆様は幼少ではないでしょうが、各地の緑陰禅の集いに参加して神さま、仏さま、ご先祖さまに、いつも見護っていただいていることを体感し、深く味わってほしいと思います。

白鳥天海

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