法話の窓

062 悟りとは何だ。何を悟るのか。悟るとどうなる。

 雪峰義存禅師は、悟りを「世界はあなただ(尽大地是れ爾)」という一言で示しました。私は今、パソコンに向かってこの原稿を打っていますが、それを載せている机、プリンターや時計、その先に見える小さな本棚と文庫本、壁と窓、窓の外の樹木や本堂の屋根、遠くの山、空と夕陽と雲、カラスの鳴き声、時を知らせる「夕焼けこやけ」のメロディー、それらの全てが、坐っている座布団の暖かみを感じ、キーボー ドを打つ指の感触を覚知し、キーボード上の手を見ている〈私〉だと言うのです。

 私たちは、皮膚や爪や毛髪を境に、その中が自分の肉体であり、そこに精神があると考え、父母や兄弟、友達や同僚などの他人と区別しています。また、自分の外にある部屋や窓、家や庭、道路や町並み、山や川、草木や生き物などの事物を外界とし、自分とは全く別だと思い込んでいます。
 自分の肉体は、手足を見て、叩いてその音を聞き、抓って痛みを感じ、臭いを嗅ぎ、舐めてみたりして確認します。パソコンや机など身の回りの物も、見て触って臭いを嗅いだり舐めてみたりして確認することができます。自分の肉体も身の回りの物も、実は見聞覚知内容である点で全く同じ事です。

たしかに、私が植物人間になったり死んでしまっても、人々が生き、物事が在り変化している客観的世界はあるでしょう。しかし、私が見聞覚知できる間は、私は見聞覚知している経験世界を生きているのです。見聞覚知している経験世界には自分と外界の区別がありません。これが本当の現実世界です。「尽大地是れ爾」を了解するには、先ずこの事実に目覚めねばなりません。

 さて、見聞覚知の経験内容は、私が関心をもち注意を向けた事が前面に押し出され、その他の事は背景に退きます。次ぎにどんな文章を打つか苦慮している時、眼はパソコンのモニターに向いていますが何も見えていません。カラスの鳴き声はしていますが、聴いていません。指はキーボードに触れていますが、何も感触がありません。温かい座布団に座っていますが、それを感じていません。夕陽が窓から射し込んでいますが、見えていません。つまり、現実世界は、私が関心を寄せ注意を向けることによって構成されるのです。身の回りの物も現実世界も皆私なんです。

 この事実を悟るには、何物にも関心を寄せず、何事にも注意を向けず、一切の判断分別を差し控えた無規定無限定の心境(無心)の世界(空)を体験せねばなりません。悟りの  第一歩は、そこに露呈するあるがまま(如)を自覚することだと言えます。私のあるがままを「本来の面目」と言い、世界のあるがままを「本地の風光」と言いますが、世界は私ですから、一事実を言い換えたに過ぎません。

 今まで思い込んでいた私と本来の面目とは全く異なり全く同じです。平生私が構成していた現実世界と本地の風光とは全く異なり全く同じです。一見矛盾しているようですが、迷と悟、非と是、凡と聖、穢と浄などを分別すれば全く異なり、一切の判断分別を差し控えれば同じです。一つの事実を二つの立場から見直したまでです。
この事実を了解すれば、次のように言えます。私が現実世界を構成したのですから、そこで憂悲苦悩するのは私の勝手です。嫌いなら破棄すればよいし、執着したければ囚われればよい訳です。迷うのも良し、悟るのも良し、気楽なものです。なにしろ、迷悟は本来一如ですから。

岩村宗康

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