法話の窓

059 自然に学ぶ

 私の住む山陰地方は雲の多い地域なので、新緑の季節は一段と眩しく感じられます。さらに自然写真を撮ることが好きな私は暖かな陽射しを浴びて芽吹く木々や花に魅せられ毎年暇を見つけては撮影に出かけています。先日も近くの山に登りました。一番の目的は山頂に咲くカタクリの花を見ること、撮影することでした。しかし、登るにつれ変化する山中の風情や木々の息吹を感じるだけでも十分に心身をリフレッシュすることができました。そして、自然を訪ね歩くようになって自然の姿に自分自身が学ぶべきことが多いと改めて感じられるようにもなりました。

 私たち日本人にとって四季の移ろいや、花や木々の姿は特別なものであると思います。禅の言葉に「百花、春至って誰がためにか開く」とあります。花は春になると百花爛漫として咲き競うのですが、誰のために咲くわけでもありません。本来そなわっている本分が様々な縁によって開花するのです。これは花や自然のあり方だけでなく、私たち人間の生き方にも当てはまると思います。一人一人が尊い命を頂いた花のように輝く存在であります。しかし、同時に私たちは目には見えなくても先人・祖先の願いや思い、そして多くの人々とのつながりの中で生かされていることを忘れてはならないということにもなるのだと思います。

 このように日本人は、四季の移ろいの中で自然と共に生き、自然に学び生活をしてきました。しかし、現代はどうでしょうか。戦後の高度経済成長は物質消費文化に支えられ、その根底には自然は人間に征服されるものであるといった考え方があります。このような考え方は人類の一方的な欲望を満たすための文化、思想を生み出しています。

 私が神戸のお寺で修行中に老師に随行してサイパン島へ戦没者の慰霊行に行ったときのことです。サイパン島や南国の島々は美しい海、自然が残り、その姿に魅せられた人々や驚く程多くの日本人客が訪れる観光地にもなっています。隣のテニアン島では在住してる日本人の若者が島を説明し案内してくれました。そして彼が別れ際にこう言いました。「近年、美しいサイパンの海も観光化が進み汚れつつあります。どうぞ美しいうちにまた観光に訪れてください」と。私の思い過しかもしれませんが、自然の島に居ながら、汚れたら後のことは知らないと言っているようにも聞こえました。

 又、ある新聞に無残に踏み荒らされた菜の花畑の写真と記事が載っていました。それは写真を撮ろうとしたアマチュアカメラマンが良いアングルを求め、柵を越えて入ったことが原因でした。美しい花の姿を求めているにもかかわらず、自分の足元ではその花を踏みつけているのです。それではたとえ出来上がった写真が美しくても、そこに本当の自然を愛する心は微塵も感じられません。そんな写真に何の意味があるのでしょうか。

 現在、様々な事件や問題が起こっていますが、これらの原因の根本に自分中心の考え方があることは言うまでもありません。テニアン島での若者の言葉も菜の花畑を踏み荒らすアマチュアカメラマンの行動も自分達さえよければといった考え方が根底にあるのではないでしょうか。これでは本当に心豊かで幸せな社会を築くことはできません。

 仏教では、自然と書いて「じねん」と呼びます。これは変わることのない真理、真実の教えという意味です。あるがままに自然に生きるということは自分勝手、自分中心に生きるということではなく、正しい教えに従い、真実の姿を手本にして生きるということです。私たちはもう一度、身近な自然を観て、自然に学ぶ心を育み、春の花や草木のようにささやかでも与えられた命を活かし精一杯生きることが大切ではないでしょうか。そうすれば自然と自分中心ではなく、心の中から本当の優しい笑顔、思いやりのある言葉、親切な行いが表れ、人々が幸せを与え合う社会ができるのだと思います。

森山隆司

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