法話の窓

051 木琴とハーモニカ

 久しぶりにハーモニカの演奏を聞く機会がありました。
 「赤とんぼ」や「ふるさと」の曲を聴きながら、私は、ふと五十年前にタイムスリップしてしまいました。
 そのとき私は、小学二年生。小学校は一学年二クラスでした。
 音楽の時間は、ハーモニカと木琴のクラスに分れて授業を受けることになりました。
 男の子はハーモニカ、女の子は木琴と自然に分れるなかで、「おまえはリズム感が悪い、木琴を習いなさい。」との父の一言で、私は無理やり木琴組に入れられてしまいました。
 悪童にはやし立てられ、教室に入ると、木琴組は、私以外全員女の子、わけもなく悲しく、木琴を打つことができません。
 ハーモニカを得意げに弾く友達がうらやましく、木琴のケースを持って登校するときの足取りの重かったこと....。
 結局、リズム感は悪いまま、木琴は打てず、ハーモニカも吹けず、私は、何より音楽がきらいな子になってしまいました。
 その後も、親の思い通りにしようとする父と、それに反発する息子の関係は長く続きました。
 その頃の苦い思いが、ハーモニカの響きと共に、走馬灯のように、よみがえってきます。
 なんとも整理のつかない気持のまま、私は坐禅をしました。
 坐禅をしていると、父といつも良い悪い、右だ左だと対立してきたことや、互いに思い通りにならず、激しい怒りをぶっつけ合ったり、悲しい思いに沈んだ姿が、浮んでは消え、浮んでは消えていきました。
 しかし、更に坐り続けていると、個々の出来事の奥で、父と私は深い絆で結ばれていたのだ、父との葛藤の中で、私は、色々な生きる力を身に付けてきたのだと、気付かされました。
 そして、父をなつかしく想い、その想いの中に、ゆったりと心地よく浸ることができました。

 人は誰も、思い通りにならないことは多く、悲しみにつぶされそうなときがあります。
 切れたり、落ち込んだりして、周りが何も見えなくなるときがあります。
 私はずいぶん時間がかかりましたが、そんなときに目先のことだけに囚われないで、心静かに元の大事なところを尋ねると、生かされている自分があり、そこには目には見えないけれど自分らしく生きる力の源があります。

 若い皆さん、一度坐禅をしてみませんか。
 姿勢を正し、呼吸を調えて、心静かに坐りましょう。
 目先のことや、自分の激情を離れて、ゆったり時間を取って、自分の心の奥を見つめてみませんか。

松久宗心

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