法話の窓

047 晩秋残感

 季節は晩秋である。上の写真は、僕が兼務する寺院の境内にある楓の画像だ。今年は紅葉がイマイチだと思いながら、それでも一度は見ておこうと行ってみてビックリ。イマイチどころか、近年でも珍しいくらいの見事な紅葉である。

 この寺は村内でもかなり山手にあり、正に「山寺」と呼ぶにふさわしい。昼夜の寒暖差が大きくなったせいで、一気 に紅葉したのだろうか。急激な気温変化はあまり好条件ではないというが自然現象は極めて微妙で、人智の及ばぬところがあるのだろう。

 こうして見ると紅葉とは如何にも美しいものである。赤、朱、橙、黄、黄緑の葉が繊細微妙なグラデーションで混じり合いながら、まるで樹が燃え上がっているかの如く鮮烈な色を放っている。無作為の作為とでも言うべきか。

 楓は人を喜ばせるために紅葉しているわけでは、決してない。葉を落とす前に樹本体へ養分を送り返し、来春の新芽吹きに備えるため。ひいては多くの種子を実らせ、自己の遺伝子を持つ子孫をより繁栄させるための、重要な戦略なのである。人はそういう楓の姿に本能的な感動を覚えるのかもしれない。

≪ この道を 行く人なしに 秋の暮 ≫ 芭蕉

 元禄7年(1694)9月23日、松尾芭蕉51歳の句である。この19日後に芭蕉は亡くなっているから、最晩年の句になる。その所為もあってか如何にも寂寥とした句だ。晩秋はかくの如く寂しい季節ではあるが、同時に生命の甦りを予感させる季節でもある。

 紅葉の時期が過ぎれば、葉はやがて散ってゆく。しかしそれは生命の終わりを告げるものではなく、新しい息吹が始まるサインでもある。葉を落としたあとには、すでに次世代の新芽がしっかりと用意されているのである。死にかわり生まれかわり、生命は連綿として尽きない。

 人は皆、今以上の幸せを求めていろんなものを欲しがるわけだ。欲が深いのである。しかし、原点に還ってよくよく考えてみたれば、自分に宿っている生命こそが、最も価値あるものなのではないか。

 秋の紅葉は、命の不思議さと尊さを気づかせてくれる。僕も、あなたも、一切衆生(生きるもの全て)、この摩訶不思議な命を、持っているのだ。

 「同事」とは、そういうことである。

村井俊哉

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