法話の窓

043 無心の祈り

 朝夕めっきり涼しくなり、境内のあちらこちらから聞こえる虫の音が、毎晩とてもにぎやかです。このような過ごしやすい気候になると、観音様を御本尊としている私の寺には、観音霊場めぐりの参拝者が日に日に増えてきます。その姿を見るたびに、私は熱心な観音様の信者だったTさんの姿を思い出します。

 三十三ヶ所のお寺を巡拝する観音霊場めぐりは全国各地で行われていますが、現在はバスに乗って各寺院を回るのが当たり前になりました。しかし、自動車がまだ珍しかった頃に巡拝を始められたTさんは、十日以上かけての徒歩による巡拝を何度も完遂しておられました。そのTさんも、三十年ほど前から私の寺でバスによる巡拝を始めた頃、老齢にさしかかっていたために徒歩を断念し、私たちと一緒にバスで回られるようになりました。

 そのようにして毎年熱心に観音霊場めぐりに参加しておられたTさんが、ある年の春に50回目の巡拝を迎えることになった時、巡拝の世話役をしていたHさんから「観音霊場めぐりを広く知ってもらうために、盛大にTさんを表彰しようではないか」との提案が持ち上がりました。住職になったばかりの私は、きっとTさんも喜んで下さるだろうと思い、すぐに賛成しました。

 その年の団体巡拝を終えた日、観音霊場の各寺院や関係者が多数集まって祝宴を設け、参拝から帰って来られたばかりのTさんを皆が拍手で迎え、その気持ちを伺おうと何気なくマイクを向けました。ところがTさんは、とまどったようにオロオロするばかりで、結局何も言葉を発することはありませんでした。いつも穏やかな笑顔で観音様にお参りをされるTさんの困った表情を見て、私はハッと気がつきました。Tさんは「表彰」の意味が理解できないのだ、と。

 数十年も積み重ねられたTさんの純粋な信仰心を、私たちは自分たちの都合で恥ずかしげもなく「表彰」をしようとしていたことに、その時初めて気が付きました。Tさんの観音様に向かう心は無限なのに、寺のPRのために勝手に区切りをつけようとしていた私たちの心は何とちっぽけなものだろう、と深く恥じ入り、Tさんを困らせたことに対して申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。

 禅宗の開祖である菩提達磨大師は、「多数の寺を建立し、たくさんの写経をした私には、どれだけ多くの功徳があるだろうか」と尋ねた皇帝に対し、果報を求めて行うことの愚かさと無心に行うことの尊さを教えるために「功徳などない」と告げられました。少しの雑念もなく純粋に仏を敬う心、無心に祈る心の広大さは限りが無い、という教えはたくさんの経典に説かれています。観音様を信仰するTさんの尊い姿は、住職として歩み始めた私にとってのこの上ない説法になりました。

朝山一玄

ページの先頭へ