法話の窓

035 こころ

 こころって何だろう。自分でも驚くくらい、優しい自分がいる。そうかと思うと、友達を妬んだり、うらやましがったり、人の失敗を楽しんでいる自分がいる。素直になりたいのに、どうしても人の言うことに逆らいたいこころがある。そんな自分を嫌だと思う、私のこころがある。考えてみると、私のこころは、成績だとか、友達の何気ない一言だとか、そんなことに反応して「私」を持ち上げたり、地獄に突き落としたりする。こんな私のこころから、逃げ出したい私のこころがある。

 自分のこころを考えれば考えるほど、自分自身が分からなくなってしまいます。こころというものは、勉強していれば遊びが気になり、遊んでいれば勉強が気になるというように、いつも落ち着くことがありません。しかし、そんな暴れ馬のようなこころの走るに任せていたのでは、いつしか自分自身が振り落とされてしまいます。つまりは、自分を見失ってしまうのです。

 「自分の存在が何なのかさえ、分からず震えている。十五才の夜」というのは、尾崎豊の歌ですが、中・高校生の年代はとかく対人・成績・自分の容姿など、そんなことで自己否定をしてしまう、理想と現実の狭間で揺れ動く世代ともいえましょう。

 しかし目で見て判断できるものが皆さんの全てではないはずです。お釈迦さまは「心眼・無心・無欲」と言われました。その意味を、簡単に説明いたしますと、


Ⅰ.心眼(しんがん) 見えないものを観る。より遠く、より深く、より広く、より高く観る。そうして人のこころに思いを馳せる。

Ⅱ.無心(むしん) こころを落ち着かせる。静かなこころで考える。

Ⅲ.無欲(むよく) 自分のこころの焦り、怒り、いらだちそういったものが、どこから来ているのか冷静に考える。

 こんなに忙しく動き回るこころを制御するには、今、ここで、自分のなすべきことをしっかりやり通す以外にありません。つまり集中することです。どうしてもあれこれ考えてしまうときは、手を止め、目を閉じて「心眼」「無心」「無欲」と、繰り返し心の中で唱えてみましょう。こうして、日頃から自分のこころを制御する訓練をすることが、何よりも大切です。

 首をちょっと傾けると青空が見えるように、ものを見る視点をちょっと変えただけで、ずいぶん楽になることはたくさんあります。しなやかで柔軟な心を持った、強く優しい自分を取り戻しましょう。

東博道

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