法話の窓

032 大きな砂時計

 2年程前「大きな古時計」という歌がヒットしました。おじいさんと一生を共にして、時を刻み続けた振り子時計の歌です。いうまでもありませんが、時計とは時を計るものです。デジタル・アナログ・日時計などなど、種類も豊富にあります。中でも砂時計というものがありますが、今はサウナの中にあるくらいで日常的にはあまり見かけることはありません。

 しかし、砂時計は過去・現在(今)・未来が一目にして解る優れものであります。砂が落ちた下の部分は過去、上の残りの砂は未来、真ん中のくびれの細いところを砂が通過する時が現在です。そう考えてみると未来は現在を経て過去になっていきますが、現在は一瞬にして過去になることがよくわかります。

 冒頭の歌のような時計ではなく、わたしたちの誰もが人生を計る大きな砂時計を持っているのです。実際の砂時計は砂が落ちきってしまえば逆さにしてまた使用できますが、人生を計る大きな砂時計にはそれができません。過去には二度と戻れないと同時に未来にもいけないし、あるのは今の今しかないのです。過去とは言い換えれば今までの人生であり誰にでも計ることはできます。いわゆる年齢です。しかし、未来はこれから生きる人生であり誰にも計ることはできません。

 わたしは過去48年分の砂がたまっていますが、30年前はじめて運転免許証を取得してから4年間で都合2回の免許停止処分をいただきました。スピード違反ばかりですが...。しかし、反省はまったくせず「俺は運が悪かった。あんなところに隠れて取締をするとは、きたねーなぁ」としか思っていませんでした。ところが免許停止の講習会で教官から「今、運が悪いと思っている人はまたここに戻ってきます。あげくには取り消しも覚悟してください。」と...。

 運というのは人の力ではどうにもならないことを、事のなりゆきに任せるときにいうことばです。仏教ではこれを縁といいます。因縁とか因果とか、あまり良い意味には使われませんが、原因があって縁を経て結果がでます。例えば花の種を蒔いたとします。これが原因で、水をやったり肥料をやったり寒さを避けたりetc...これが縁です。そうして花が咲きます。これが結果です。縁次第で花の色や大きさなど随分変わってきます。

 わたしも運と縁の違いに気付くのが遅かったら、免許証の取り消しどころか未来の砂もすでに尽きていたかもしれません。そう、車の運転は運任せではだめなんですね。安全運転という縁を結ばなければ今のわたしがなかったのです。

 人生という大きな流れの中で過去とは原因、今とは縁、未来とは結果としたら、今生ているこの時は『縁の中に生きている』といっても良いでしょう。その中では良い事ばかりがあるとは思えません。当然いろいろな困難にも出会うはずです。
 妙心寺二世の微妙大師(みみょうだいし)※は、

『天のその人にわざわいするは、天いまだその人をすてざるなり』

ということばを残しておられます。
 困難やわざわいは誰にでもあることですが、決して神仏に見放されたわけではないのです。真実を有りのままに受け取って運任せにせず、縁と受け取ってしっかりと前を向いて縁に生きてください。必ず先は開けてきます。困難やわざわいは人を押しつぶすこともしますが、また人を成長させる力をもそなえているのです。

 こうしている間も大きな砂時計の砂はどんどん落ちていきます。運とあきらめずに縁と受け取ってみれば、また未来の砂も変わります。今からはじめませんか。 


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※微妙大師(授翁宗弼禅師)[1296~1380]妙心寺二世。42歳の時に関山慧玄禅師について禅の修行に入り、61歳で印可される。関山禅を嗣法(しほう)した関山慧玄禅師唯一の弟子。無因宗因(むいんそういん)禅師などの弟子を出して、85歳で遷化された。墓は三雲の妙感寺、本山の塔所は山内の天授院にある。

堀尾佳裕

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