法話の窓

026 ソナタのこころ

2004年は韓国ドラマ「冬のソナタ」が大ヒットし、瞬く間に日本中が韓国ブームに染まりました。大騒ぎの理由がよくわからなかった私はビデオ屋さんで全巻を借りて、自分なりにあれやこれやと考えてみました。

 最終的には、初恋がテーマではあるものの誰かを大切に想う温もりが中高年の女性を中心に広く受け入れられたのではないかというところに落ち着きました。それは特別な何かではなく、誰もが持っているごく普通の「人間らしい温もり」だと思います。しかし残念なことに今の日本ではかなり希薄になってしまった、ある種懐かしい想いなのかもしれません。

生れ子の次第次第に智慧つきて 仏にとおくなるぞ悲しき  (道歌)

 生まれたばかりの赤子の純真無垢なことは誰もがご承知のはずです。損する、得する。見込みがある、見込みがない。あーでもない、こーでもない...。つまらぬ駆け引きも打算も何もない真っ白な、それこそ初雪のような美しいこころのわたしがあったはずです。しかし、成長すると同時に知識や経験が少しずつわたしを汚していきます。そして気がつくといつの間にか「大人になるということはそういうことなのだ」と自身に言い聞かせ、開き直って無理やり自分を正当化しようとします。日常のあわただしさに飲み込まれそうなわたしをふいに立ち止まらせてくれたひとつが先のドラマなのかもしれません。本当は誰もが真っ白で、しかも温もりのある自分を求めていると思うのです。

 禅の大家である澤木興道老師がおっしゃった「宗教は生活である」という言葉が胸に染みます。宗教は単なる机上の学問対象ではなく、少しばかり高尚な趣味でもなく、勿論観光でもない。あくまでも「生活である」と示して下さいました。「今」の私が置かれたその場所でいかに腰を据えてこの時を生きるか、ということが一番重要な課題なのです。

 毎日の生活の中では時として自暴自棄になってしまうことがあるかもしれません。又、私はもうそんなきれいな自分には戻れないと思う方があるかもしれません。しかしドラマは所詮作り物で現実は更に奇なるものです。

 「今」の私が変わりさえすれば未来も変わっていきます。生れ子が等しく具えている純粋なわたしをもう一度、深く、見つめなおしてみたいと思うのです。それはまたとても「温かいわたし」です。

 ...私は、そなたのこころに期待します。

峯浦 啓秀

ページの先頭へ