法話の窓

025 よき出逢いを

掬水月在手(水を掬すれば、月、手に在り)

 水を掬った掌に明白な月が冴えると詠うこの句は唐の詩人、于良史(うりょうし)の「春山夜月」に基づくとされ、禅の書物『虚堂録(きどうろく)』にも見られます。

 綺麗な水を両手ですくってみると、そこには高く照らす月さえも宿すことができる。清浄なこころは、森羅万象を悉く受け入れてしまうと諭(さと)す言葉でしょう。

 東京駅に隣接する東京国際フォーラム地下に相田みつを美術館があります。そこで、書家であり、仏教的な詩人である相田みつをさんの生誕80年の特別企画展が開催されていました。

   そのときの出逢いが
   人生を根底から変えることがある
   よき出逢いを
                (相田みつを)

 彼の作品は、独自性と共感性に富んでいます。日曜日の会場には、デートを楽しむ若いカップル、幼い子どもとおかあさん、和服姿の中年女性、年配のご夫婦の姿が見られました。熱心に作品を見入り頷きながらメモをとる人、静かに語らう人。そこは東京という大都会にいることを忘れてしまうほど、静寂な時間が流れているようでした。

 会場の片隅に置かれた手水鉢(ちょうずばち)が目を惹きました。この手水鉢には、湧き出る清水のように水が溢れ流れ、それが渦を巻いています。興味津々に覗き込むと、何やらモヤモヤとしたものが渦に映し出されていました。

「手水鉢の上にものを受け取るように手を差し出してみて下さい」

戸惑いを察した声に、言われるままに両手を手水鉢の上に差し出してみると、手の中に相田みつをさんの詩が映し出されたのです。その意外なからくりと映し出された言葉に、何とも言えない心地良さを覚えました。それは、綺麗な水を汲んだ両手に、あの高く照らす月さえもすっぽり納まってしまった。その于良史の驚きに触れた思いに浸るようでした。  

 いつのまにか固定観念に縛られて、ちいさな器に留まりがちな私は、自らの狭い価値観に執着するがゆえに、見落とし聞き逃してしまっていることが多々ありましょう。

 「そのときの出逢いが人生を根底から変えることがある」。掌の月との出逢い、人との出逢い、言葉との出逢い、教えとの出逢い。人生は出逢いの連続です。こころの門戸(もんこ)を大きく開けることで、思いも拠らなかった「よき出逢いを」頂けることを相田さんはうたわれたのでしょうか。

 折々の出逢いを見逃し、聞き逃さないためには、我執という心の手綱(たずな)を緩め、掌の水のような大小にこだわらず美醜(びしゅう)にとらわれず何でも受け入れ映し出せることのできるこころに目覚めさせる願いが「掬水月在手」の一句に託されているものと思います。

羽賀 浩規

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