法話の窓

023 施餓鬼供養に思う

 お盆の暑さも今となっては懐かしく、既にお彼岸も過ぎて久しいこの時期、さて何を題材に採ろうかと、逡巡するのである。過去の法話を見るに、施餓鬼供養について書かれたものはないようである。聞けば題材は自由であるらしい。ココは取ったもん勝ち。季節外れを承知で施餓鬼の意義について書いてみたい。

 と思ったら「禅寺歳時記」のページにちゃんとあった。シマッタ。ページが違うからヨイ、ということにして、どんどん書いてしまうのである。

 仕事や遊びに忙しいあなた方も、お盆には実家へ帰省し、お墓参りをされることだろう。もしかしたら、ごく最近大切なご肉親を亡くされ、悲しみの渕にうち沈んでいらっしゃるかもしれない。残念ながら亡くなった方は、二度と還ってこない。これは真理である。今、生きる者としてできることは、先に逝ってしまった人々への供養。これのみである。

 「施餓鬼」とは正に字面の如く「餓鬼に施す」という意味である。「餓鬼」とは六道(天上道、修羅道、人間道、畜生道、餓鬼道、地獄道)のうち、餓鬼道に落ちて苦しんでいる亡者のこと。餓鬼が口にしようとするものは忽ち炎と化し、何一つ食べることが出来ず飢えの苦しみには際限がない。自分の力ではこの苦しみから脱することが出来ない餓鬼に、食べ物を施そうというのが「施餓鬼供養」である。

 実際には、食べること(つまり他の命を奪うことに他ならない)で自己の命を繋いでいる自分の罪深さ、或いは食べ物に対する感謝の念を自覚するための供養である。「いただきます」「ごちそうさま」という日常的な言葉の中にも、この教えが生きているのだろうと思う。
            (Vol.6 東博道師 「食事五観」)

 「施餓鬼供養」の起源は仏教伝説の中にある。

 「お釈迦様の十大弟子の一人である阿難(アナン)尊者が、あるとき森の中で坐禅していると、真夜中に突然餓鬼が現れました。その餓鬼は口から火を吐きながらこう言いました。

 『三日後、汝の命はなくなり、我と同じ餓鬼道に落ちることであろう』

 驚いた阿難はすぐさまお釈迦様に相談します。

 『観音菩薩から授かった真言(お経の一種)を七回唱え、一心に祈れば少量の食べ物が沢山になる。これを無数の餓鬼に施し、空腹を満たさせなさい。こうして供養すれば多くの餓鬼が苦身を逃れ天上に生まれかわれよう。また、その施主は寿命が延び、仏の道を悟る近道にもなるのだよ』
 とお釈迦様は教えられました。阿難尊者はそのお言葉通り、早速、供養を行いました」。

 本来「施餓鬼供養」は随時寺院で行われていた。例えば年忌法要(1周忌、3回忌など)でも営まれていたのである。最近ではお盆の行事として営まれることが多くなったが、春秋のお彼岸に施餓鬼供養するという実例もある。であってみれば、11月に施餓鬼供養の話を書くのも、あながち見当外れではないというわけである。と、この辺ちょっと手前味噌。

 施餓鬼供養では、新亡(前年の供養以降に亡くなった方)、先亡(ご先祖様)、さらには三界萬霊(諸々全ての霊)の塔婆を立て、ご飯、水、野菜、果物、お菓子など、沢山のお供え物をして、あらゆる餓鬼に施しをする。その功徳が施主やその先祖にまで及び、それがそのまま先祖追善供養になってゆく、というわけである。「追善」とは、故人が生前為し得なかった「善行」を、遺された者があとから「追って」代わりに実行する、という意味だ。

 宗旨により解釈に多少の差異はあるかと思うが、概(おおむ)ねこれが「施餓鬼供養」の意義、目的である。

 僕は僧職にありながら、死後の魂がどういう状況にあるのか、明確な答えを持たない。はっきり言って、ワカラナイのである。だが、一つだけ確実にいえることは、永い永い時間の果てに集積された無数の命の塊が、僕(貴方)自身であるということ。故人(例えば祖父母、父、母)の肉体は滅んでも、その命脈は間違いなく自分の中に「生きて」いるのである。

 「霊」とはまさに自分の中に脈々と受け継がれた祖先の命を指す言葉であって、昨今TVや怪しげな雑誌などに面白おかしく、また禍々(まがまが)しく取り上げられるようなものとはまったく別物である。あんなもなァすべて大嘘だ。ダマされちゃあいけねえ。

 己が在り様に深く感謝し、至心素直に供養したいと思うのである。

村井 俊哉

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