法話の窓

018 忍の一字

 少し古い中国の昔の人の話です。秦を倒して、中国の古代に長期にわたって安定した国家、漢の国を建国した劉邦(りゅうほう)の軍師張良(ちょうりょう)の青春時代の話です。

 彼は、有能な人物であったけれども、青春時代は浪人生活を送って、毎日不満の生活をしていた。ある日のこと、張良が、ある橋のたもとを歩いていると、一人の老人に出会った。

 老人は何も言わず、自分の靴を橋の下に落として張良に取ってこいと言った。張良は腹が立ったが年寄りの言うことだからと我慢して靴を拾って来て、その老人に渡した。すると老人は、今度は足を投げ出して靴を履(は)かせろと言う。張良は仕方なく、老人の言う通り靴を履かせてやったところ、老人は「お前は見所のある小僧のようだから、五日後に又ここに来てみろ」と言った。

 張良が五日後に約束の場所へ行ってみたら、老人はすでにそこへ来ていた。「人に物事を教わるのに、遅れて来るとは何事か」と、時間に遅れたことを叱り、再び五日後の朝、再会することを約束した。張良は今度は前の夜から出かけて行って待っていると、老人が現れて一冊の本を取り出して張良に渡した。

 その本こそ太公望の残した兵法の書であった。張良はその後、秦末の動乱の中、劉邦に仕えてその軍師となり、漢帝国を打ち立てるのに大いに貢献することになる。

 世の中、お互いに欲望を持ち合わせ、ギスギスして住みにくい嫌なことの多い時代です。青春時代、ちょっとムカつくことがあっても、一歩引いてじっと耐え、自分の弱い心と戦う勇気を持ちたいものです。

 ところで、先に出た張良なる人物、堂々とした風格の持ち主で、人を引きつけてやまないタイプと思われがちですが、意外にも中国の史書(ししょ)には、張良のことを、小さい顔で気の弱そうな風采の上がらない、意志や気力の強さと無縁な外見の人物であったと書かれています。どこにでもいそうな普通の青年が、"忍の一字"で天下の人になったということでしょうか。世の中、実は案外、真実はこんなものではないか......等と思います。

 住みにくいこちらの岸から、住みやすいあちらの岸(彼岸)へ行くにはどうしたらよいか。仏教の教えでは、六つの方法があると説かれています(六波羅蜜)。この話はその一つ、忍辱波羅蜜についての話です。

河野 弘昭

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