法話の窓

013 自分自身を創造しよう

 人生で言う青春時代は木々で言えば新緑の頃であろうか。生き生きとした息吹きを感じる時、思わず知らずこちらも元気が湧き起こる。自然には大きな力が蓄えられている。いつもそう思わずにはいられない。全く同一種の木が、芽生えた環境の違いに見事に適応しているのを見るとき、「人間だってできる筈だよ」と思う。人は生まれてくる家も、両親も、周囲の環境も異なってこの世に誕生するが、確実に成長しやがて老化の一途を辿る。

 庭木の移植をしてみると、弱そうに見えた木が意外にしっかりと根をおろしホッとしたり、丈夫だと思っていたら全く意に反することがある。それにはやはり時節や時期を見計らったり、環境を充分に観察し整えておかなかったことに起因するところもあるが、なんと言ってもそれぞれの持つ生命力とでも言うべき特性の働きによるのではないかと考える。多くの場合、根の部分がしっかりと掘り起こせることが重要な要素となる。

 妙心寺の開山堂の前の池には今、睡蓮が見事に咲き誇っている頃でしょう。蓮はその根をどろどろのドブの中に下ろし、しっかりと力を蓄えている。その力が水面に美しい花を咲かせてくれるのです。仏教の教えはそれになぞらえるので蓮の絵や押し型が仏事の熨斗に使われるのです。私たち人間も自然の申し子の一つであるならば、同様に根っこを育てておかなければなりません。私たちの根っこはどこにあるのでしょう。自分を創造することこそ私たちの求める根っこなのですが、思い込みや引っ込み思案が災いしてかなかなかすんなりと自分育てができません。自分を創造するためには、そんなものを振り払い振り払いして行くことが肝要です。何と言っても大切なことは自分自身が自分自身を見限らないことです。この私がこの私を見限ってしまっては誰がこの私を導き創ることができるのでしょうか。思い込みや引っ込み思案を捨てて正しい目標を立てて自分自身を創造しよう。

小田 実全

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