法話の窓

012 生命をみつめる

 お釈迦様の教えに「一切衆生 悉有仏性」(一切衆生 悉く仏性有り)があります。これは『涅槃経』という経典の中に説かれています。

 命あるものは、すべて仏となる性質(可能性)を内にもっている。つまり、すべての人が仏に成るべき仏性を生まれながらに具えている、人間性を完成して真の人間に成る事ができるという意味です。

 この教えを人生論として、日常生活に当てて解釈するならば、万物すべてがそれぞれを他のために役立てる、機能(はたらき)をしているという事になります。

 鎌倉時代の華厳宗の名僧で京都栂尾の高山寺に住した明恵上人は、あるとき、高山寺の廊下にちり紙が一枚落ちて風に舞っていたが、誰も拾おうとしませんでした。明恵はひざまずいてそのちり紙を拾いあげて虔しやかに合掌して「あな(ああ)仏法領の物をそまつにするかや」と歎かれた、というのです。

 仏法領とは、仏法の世界の意味で「悉有仏性」を示します。つまり一枚のちり紙でも、汚れを拭き清めるはたらき(機能・作用)があるわけで、えんぴつでは何も拭けません。ちり紙でなければできない機能を作用させることもなく、無駄に放置して、つまりちり紙に具わっている仏性の機能を機能させないのを、「勿体ない」と表現し悔やむのです。

 「勿体ない」は、そのものに具わっている機能が機能することなく(生かされず)無駄になるのを惜しみ悲しむ気持ちです。他のために役立とうとする仏性の機能が作用できないのを怨み惜しむのです。万物に仏性が有るという教えから、昔の人は「一切のものに仏さまが宿っていらっしゃる」と素朴な信仰心を持ったのだと思います。

 私も3人の子供がいますが、一番下の子供は小学校3年生になりました。毎日、学校から帰るとランドセルを開けて、まずえんぴつを削るのが日課です。今時のえんぴつ削り器は性能がよく、穴の中に突っ込めば必要以上に削れてしまいます。私はその所作を見るたびに、勿体ないと思います。「いいかげんに手を離しなさい」と、子供とのやり取りが始まります。すると、「お父さん、20円か30円出せば、また新しいえんぴつが買えるじゃないの!」と口答えです。「そうではなく、そのものを大切にしなさい。」と、やり返すのですが、豊かな時代になった現代は、一つひとつの物を大切にするという心をどこかに置き忘れてしまっているように思われます。

 そういえば、私が小学生の頃でしたが師父は、「えんぴつを持ってきなさい。」その次に出てきた言葉は「小刀を持ってきなさい。」でした。そして新聞紙を広げ丁寧に削ってくださった事を、今思い出しました。

 えんぴつ1本にも、文字を書くというそのものにしかできない機能があるのです。何物を持ってきても代え難い役割がそこには存在するのです。だから、仏教では「いのちは大切ですよ。いのちを大事にしましょう!」と呼びかけるのです。

 その事がわかれば、一人ひとりの生命も大切な事がわかってきます。今、イラクでは多くの生命が奪われています。誰一人として無駄な生命ではないのですから。

澤田 慈明

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