法話の窓

005 勉強

山田無文老師の書かれた『死にともない』(春秋社、1971)の中にこんな一節がありました。


 ある中学校の先生が申しました。子どもから尋ねられたというのです。

「先生、勉強って何でせんならんのですか」

「そりゃお前、勉強せにゃ、おっ母さんがいうようないい学校いけへんがな」

「いい学校へ行ってどうするんですか」

「それはお前、卒業して、立派な社会人になるんやがな」

「立派な社会人って何ですか」

「それはお前、きれいな奥さんもろうて、幸せになるんやがな」

「つまり先生、生活を楽しむんでしょう」

「うん、まあそうや」

「そんなら僕、勉強せんほうが、今でも生活楽しいんです」

 子供にそういわれて、先生は返答ができなかったというのです。妙な世の中だと思うのですが、どうでしょう。

 最近は終身雇用制度の崩壊と共に学歴神話も崩壊しつつあるようですが、高度成長時代からすでに「何のために勉強するのか」という問題があったのだと痛感しました。つまりは「何のために生きるのか」という問題です。

 しかし、ずいぶんと豊かになった今日でさえ、毎年三万人以上もの方が自らの尊い生命を絶っている状況をかんがみると、それは決して「生活を楽しむため」ではないようです。

 お釈迦様は当時としては裕福で、何不自由ない生活を送りながら、「人生の意味」について悩み、出家されました。そしてお悟りになった内容が仏教です。

 禅では特に「己事究明(こじきゅうめい)」を主張します。それは自分の人生を主体的に生きるためには、自分の存在を客観的に知る事が不可欠だからです。自分を知らずして、自分がどうすれば良いかが判るはずがありません。

 勉強もしかり。やはり自分を知るために、さまざまな方面から人間や周囲の環境を学ぶのではないでしょうか。

山本 文匡

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