法話の窓

【清泉】峰の嵐に散りにしと(2014/02)

 平安中期に作られた『倭名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』(百科事典的分類による漢和辞書)の地名の欄に「宇和郡」という名前が出ており、遡(さかのぼ)って、「宇和評」という律令時代に記録された木簡(もっかん)も奈良国立文化財研究所に所蔵されています。
 「宇」とは四方上下と古今、空間。「和」とは、やわらぐ、ほどよいなどの意味です。まことに良い地名で、古墳時代前期から継続してきた歴史と、この地名には誇りを持ち続けたいと思っています。
 弊寺、光教寺は嘉禎二年(1236)に藤原(西園寺)公経(きんつね)が宇和郡を鎌倉幕府に願い出て荘園とし、三十年後に創建した寺です。
 西園寺家は宇和の荘を得てから百数十年後領地へ下向し、天正十五年(1587)戸田勝隆に滅ぼされるまで、その治世は三世紀半も続きます。その後二十年の間に戸田勝隆、藤堂高虎、富田信高と領主がかわり、藤堂高虎以来宇和郡の中心は板島(宇和島)に移り、伊達家が大政奉還(たいせいほうかん)まで宇和を治めます。
 西園寺最後の領主公廣(きみひろ)は、かつては出家して来応寺に住していましたが、還俗(げんぞく)して後継者となります。公廣は、朱印状(しゅいんじょう)により領地を半分安堵(あんど)するという戸田勝隆の欺(あざむ)きの招きに応じて大洲へ出向くに当たり、辞世(じせい)を残しています。

 

 黒瀬山(くろせやま) 峰の嵐に 散りにしと
        他人(ひと)には告げよ 宇和の里人(さとびと)


 私も峰の嵐に木の葉が散って行くように自然の摂理の中に散って行ったのだと他人には告げなさい。恨みを残せば再び争いになり無辜(むこ)の民の命を失うことになる。公廣は、残される民の行く末を思い、戒めを残して逝きました。
 「恨みは、恨み無きによりてのみ、止むことを得ん」という、み仏の教えを身をもって実践して行かれた公廣卿。その御廟(ごびょう)には今日でも、お参りが絶えません。

     〜月刊誌「花園」より

小田実全(おだ じつぜん)

【清泉】峰の嵐に散りにしと

 

 平安中期に作られた『倭名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』(百科事典的分類による漢和辞書)の地名の欄に「宇和郡」という名前が出ており、遡(さかのぼ)って、「宇和評」という律令時代に記録された木簡(もっかん)も奈良国立文化財研究所に所蔵されています。
 「宇」とは四方上下と古今、空間。「和」とは、やわらぐ、ほどよいなどの意味です。まことに良い地名で、古墳時代前期から継続してきた歴史と、この地名には誇りを持ち続けたいと思っています。
 弊寺、光教寺は嘉禎二年(1236)に藤原(西園寺)公経(きんつね)が宇和郡を鎌倉幕府に願い出て荘園とし、三十年後に創建した寺です。
 西園寺家は宇和の荘を得てから百数十年後領地へ下向し、天正十五年(1587)戸田勝隆に滅ぼされるまで、その治世は三世紀半も続きます。その後二十年の間に戸田勝隆、藤堂高虎、富田信高と領主がかわり、藤堂高虎以来宇和郡の中心は板島(宇和島)に移り、伊達家が大政奉還(たいせいほうかん)まで宇和を治めます。
 西園寺最後の領主公廣(きみひろ)は、かつては出家して来応寺に住していましたが、還俗(げんぞく)して後継者となります。公廣は、朱印状(しゅいんじょう)により領地を半分安堵(あんど)するという戸田勝隆の欺(あざむ)きの招きに応じて大洲へ出向くに当たり、辞世(じせい)を残しています。

 

 黒瀬山(くろせやま) 峰の嵐に 散りにしと
        他人(ひと)には告げよ 宇和の里人(さとびと)


 私も峰の嵐に木の葉が散って行くように自然の摂理の中に散って行ったのだと他人には告げなさい。恨みを残せば再び争いになり無辜(むこ)の民の命を失うことになる。公廣は、残される民の行く末を思い、戒めを残して逝きました。
 「恨みは、恨み無きによりてのみ、止むことを得ん」という、み仏の教えを身をもって実践して行かれた公廣卿。その御廟(ごびょう)には今日でも、お参りが絶えません。

     〜月刊誌「花園」より

小田実全(おだ じつぜん)

ページの先頭へ