法話の窓

【一滴水】にこやかな顔 思いやりの言葉(2013/02)

 和願はにこやかな顔、愛語はおもいやりの言葉として、仏教の大切な実践行です。
 特に家庭での『和願愛語(わげんあいご)』は心の安らぎとなり、子どもにとっては心身の成長をはぐくむ大きな心の栄養となるのです。
 しかし、ともすると時には愛情という名の履き違えで過保護になり、その結果、忍耐力が身につかず、仲間との協調性にも欠け、責任感の持てない甘えん坊の子どもになってしまう場合があります。
 その反対に、大人の勝手な理屈を押しつけて、その子どもの自主性や個性を奪ってしまう恐れもあります。
 家庭とは家族が住むところであり、その家庭を「庭」と表現しているところに何か深い意味が感じられます。
 それは、家庭の一人ひとりを庭の草木にたとえ、大きい木は大きいなりに、小さな草花は小さいなりに、それぞれ心を込めて育てることによって、より美しく、より正しく成長していくのです。
 原野の樹木は自分勝手に伸びたい方に伸びてしまい、そのため木陰になった小さな草花は、十分成長することができません。つまり、バランスを整えて手入れすることによって、木も花も石も平等に美しく見ることができ、庭の価値がでてくるものです。
 お釈迦さまは、このことを家庭に置き換えて「人の心も、むつみあえば花園のように美しい」とたたえられています。
 しかし、そのような日ばかりではありません、時には波風が起きることもあります。
 そこを、聖徳太子は「共にこれ凡夫(ぼんぷ)のみ」とお示しになっていますが、マイナスだらけの人間が集まっているのだと気づいてこそ、和願愛語の心でささえあっていけるのです。


     うばい合えば 足らぬ
     わけ合えば あまる
     うばい合えば 憎しみ
     わけ合えば 安らぎ

                                  (相田みつを)
 

田尻和光

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