法話の窓

【一滴水】おかげさまの心(2012/11)

 妙心寺の開基花園法皇さまは御病気のため余命幾許(いくばく)もないことを悟られて、遺言の中で、
 「報恩謝徳の思い、仏法興隆の志は寝ても覚めても忘れたことはない」という尊い御心(みこころ)を後世に託されました。
 その後、花園法皇さまのお徳を同信同行の自覚に立って、一人ひとりが心の花を咲かせ(仏心に目覚め)、家庭や社会を住みよい『心の花園』にしようと願って組織されているのが、私たちの花園会であります。
 『おかげさまで』という報恩感謝の思いは、多くの恵みによって自分自身が『生かされている』という悦(よろこ)びの中で、自然にいただける尊い心ですが、ある新聞の読者欄に十九歳の若者が次のような投書をしていました。
 「感謝の強要は表面的で疑問である。本来、自分自身に納得しなければ本当の感謝にならない......(以下略)」
 ところが数日たった頃、それを読んだ二十一歳の若者が投書で反論をしていました。
 「私たちは根拠もなく感謝を強要されることがありますか。きっと親や世間の人は心を込めてアドバイスしてくれるのだから、素直に受け入れ、よりよい人間関係を築いていきたいと思っています」
 同じ若者同士、どうしてこんなに、考えの違いが生じてくるのでしょうか。
 おそらく、生まれた時は実に清らかで純粋な心であった筈なのに、いつの間にか、その差が開いてしまうのはなぜでしょうか。
 特に最近のおぞましい事件が起きるたびに、社会情勢、教育のあり方、家庭環境など、社会の問題として取り組まなければなりません。
 どんなに物が豊かで生活が便利になっても、人間本来の尊い心に気付かなかったら、人生の生きがいも本当の幸せも得られないことを自覚したいものです。

 かんしゃくの
  くの字を取りて暮らしなば
    いかに この世が たのしかるらん

 

  注、法皇さまのお命日は貞和四(1348)年十一月十一日です。(御年五十二歳)

田尻和光

ページの先頭へ