法話の窓

【一滴水】カラッとした心(2012/10)

 人がいることを察知して点灯する電灯、料理の温度を測ってくれる電子レンジ、センサーでホコリを吸いとる掃除機など、また最近は携帯電話やインターネットを使い家庭にいながらにして海外の情報を瞬時に得られるなど、時代の進歩の早さには驚かされます。
 それほど現在の暮らしは「便利」のひとことに尽きますが、この便利さから更に何を求めているのでしょうか?
 便利さとは「無駄な労力が省けた」「手間をかけない」「仕事や家事が楽になった」など、生活を豊かにし、ゆとりを大切にするための人間のすばらしい智恵でした。
 しかし、その反面、大量生産で物が増えつづけ、より高性能化、多様化して、本当に必要であろうかといった物までが家庭に溢れており、私たちはいつの間にか物を中心とした規格品の生活が快適だとする思い込みをしているのではないでしょうか。
 ただ、物の便利さだけを求めるのではなく、不便なところに創造性が生まれ、手間暇かけて工夫するところに喜びがあり、そこに個性がでてくる余地があることを考えると、不便さが逆に心の豊かさを生み出してくれるのです。
 同じように、心にもアカやホコリが溜まりますと大切なものが見えなくなってしまいます。特にストレスの多い現代社会の中で物や雑念に振り廻されると自己を見失ってしまいます。
 禅語に『放下著(ほうげじゃく)』ということばがあります。『著』という字は置字、助字で直接意味はなく、放下せよ、捨ててしまえ!という意味ですが、決して物を捨てろということではありません。
 「雑念を捨てろ!」ということです。
 過んだことで、今さらどうしようもないことは、いつまでもこだわるな!
 名誉や地位にとらわれることなく「我(が)」を放下せよ!という禅の教えです。
 そのところを達磨さんは『廓然無聖(かくねんむしょう)』と教え、秋晴れのごとくカラッとした心を説いているのです。
 

田尻和光

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