法話の窓

【随縁】臨済栽松(2011/01)

 明けましておめでとうございます。

 昨年は、未熟さが露呈した出来事、未知の出来事が多くありました。促成にて成長したわが国、ここらで老成の域に達するよう、「其の本を務める」、そんな一年でありたいものです。

 

 一月十日は「臨済忌」、我が臨済宗の宗祖、臨済慧照(りんざいえしょう)禅師のご命日にあたります。初祖達磨大師より数えて十一番目のお祖師様です。黄檗希運(おうばくきうん)禅師の法を嗣(つ)がれました。
 「臨済栽松(さいしょう)」の故事が残されています。
師(臨済)が松を栽えていると、黄檗が問うた「こんな山奥にそんな松を栽えてどうするつもりか。」師「一つには寺の風致を整え、二つには後世の人のためのしるべとするためです。」と答えます。
 この故事を、現在の心的環境の整備と将来への道標と受け取りたいと思います。寺の風致、即ち今日の日本の「精神的風土」、また「後世の人々への道標」は整えられているのでしょうか。
 次々と起こる不祥事、一昔前には考えられないような事件が続発していることを考えるとき、安閑とはしておられません。「環境」(特に心の問題)を調え、「将来への道筋」をしっかりと、示さなければなりません。
 亀井勝一郎さんの言葉に「愛情とは凝視することである」とあります。私達は余りにも、「見て見ぬふり」「目をそらす」ことが多いのではないでしょうか。本当に愛する心があれば、黙ってはおられない、「見て見ぬふり」「目をそらす」ことは出来ないはずです。『臨済録』(臨済禅師の言行録)の序文には、「巌谷栽松」(けわしい谷に、松を栽える)ともあります。厳しい環境ながら、自らの姿勢を調えると共に、後世のために『道標』をしっかりと示してゆかなければならないと思います。
 今、厳しい態度を示さねば、将来悔いを残すことになります。「木の実は播(ま)いておく」(山頭火)。「臨済栽松」の心と受け取りました。後世のため、何かしなければならないのです。

微笑義教

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