法話の窓

【随縁】仏法とは我が心なり(2010/10)

 黒川の大明寺さん(山陰東教区・兵庫県生野町黒川)の開山様は月庵宗光禅師です。禅師には『仮名法語』が残されており、「信女慶明に示す」の段に次の様な教えがあります。
 「仏法と云うは、別の事に非ず、只我が心なり。我が心を善く持てば即ち仏の心なり。我が身を善く持てば即ち仏の法なり。」
 仏の教えとは、別段のことではない、我が心を善く持つことであり、我が身(行い)を善く持つことに他ならない。との教えです。

 『心地観経』には、
 「凡夫は、自心を観ざるが故に生死海中に漂い、諸仏菩薩は、自心を観るが故に生死海を渡りて、彼の岸に到る。」とあります。
 自らを省みる(自分をみつめる)事のないものは、生き死にの苦悩の荒海に漂い、常々しっかりと自らを省みるものは、苦悩の荒海を渡り得て、悟りの岸、安らぎの岸、彼岸に到るとの教えです。

 二十年程前大人気を博した、「獅子てんや・瀬戸わんや」の漫才コンビは、わんやさんの病気により、いつの間にか、芸能の世界から姿を消してしまいました。それから、獅子てんやさんの苦悩が始まりました。人気絶頂から引退の憂き目、経済的なこと、自身の芸能界への未練。四年間苦しみの毎日であったと云います。
 そんな折、「家内が『お父さん、お金のことなら心配しなくていいですよ。それより、せっかく時間があるんだから、お寺に行って坐禅でもしてみたら』とすすめられ、不思議なくらい素直にその気になったんです。」
 そうして三か月程経った、ある日のこと、「坐禅をしていたら、突然、涙がはらはらと落ちるんです。世の中にこんなに、平安で静かなことがあったのかと......。それを何で今まで気づかなかったのかと、泣けて泣けて涙がとまらないんです。」
 涙の中で、行き着くところに着いた喜びと安らぎに包まれて行ったと言います。「坐禅」によって、深く自心を省みることにより、喜びと安らぎの世界、彼の岸へ到り得た獅子てんやさんでした。
 10月5日は「達磨忌」です。達磨大師は「諸光の中に於いて智光を上となす、亦諸光の中に於いて心明を上となす......」と仰せです。
 本当の宝珠とは人間の心であり、金銀瑠璃等、如何なる宝玉の光も智恵の光に、及ぶものはないとの教えです。
 智恵の光に照らされて迷いの闇を抜けた獅子てんやさんでした。

※獅子てんやさんの話は出版物からの抄録です。

 

微笑義教

ページの先頭へ