法話の窓

【随縁】茗荷(みょうが)の子(2010/07)

 境内の竹林の麓に茗荷が繁っています。茂みをかき分けると茗荷の子が目に留まります。薬味や天ぷらなど、香りよい食材です。
 茗荷を食べすぎると物忘れをする、愚鈍になる、との俗説がありますが、それは、周利槃特(チューダパンタカ)の故事によるもののようです。

 


釈尊のお弟子に周利槃特という方がおられました。
周利槃特は愚鈍で非常にもの覚えが悪かったといいます。そこで釈尊は周利槃特に偈を覚えさせる代わりに、兄弟子たちの革のぞうりを掃除するようおおせになりました。
「四カ月一偈を暗誦するあたわず、仏、外来者の革履の塵垢を払わしめ給う」と経典にあります。
兄弟子たちは、これを拒みましたが、釈尊の「周利槃特のためである、掃除をさせ、両句(塵を払い、垢を除かん)の法を教えよ」とのお言葉に、革履の掃除を許し、両句の法を教えました。
そこで、周利槃特は「塵を払い、垢を除かん」と、一生懸命ただひたすらに掃除を続けます。
やがて、「両句」には内なるものと、外なるものと二つの意味があると気づきます。外の垢とは、灰土瓦石等の汚れ、除くとは清浄にすること。我が身上にも内なる「塵垢」があり、結縛(煩悩)が塵垢であり、智慧が払除であると気づきます。
「我、今、智慧を以て、この結縛を除くべし」と悟りを得ます。やがて、羅漢の位に登り、周利槃特尊者と敬われました。
 周利槃特尊者が亡くなられ、そのお墓の辺に繁った植物があり、「茗荷」(名前を荷なう。自分の名を覚えられず名札を背負っていた)と名付けられたとの、言い伝えです。
 禅宗では、「掃除」をやかましく言います。それは、環境の美化だけではなく、清掃をしたあとの清浄感を大切に思うからです。掃除をした後の、清々しい気持ちは誰もが味わうことです。その清々しさは、洗心(己の心の汚れを洗い清める)の力(智慧)となるのです。
「汚ギャル」に代表されるように、今、「お掃除」が行き届いていません。まずは、環境の美化、お掃除に精を出しましょう。

微笑義教

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