法話の窓

【好日】時間(とき)の流れ(2010/01)

 あっという間の一年が過ぎ、また新しい年を迎えました。誓いも新たに充実した一年を過ごしたいとは思いますが、さてさて......。
 

 ところで、ヨーロッパに伝わるナゾナゾです。
   一本の木に十二の枝、どの枝にも四つの巣、
   どの巣にも七つの卵があります。
 さて、この木はなんでしょう?

 

 わかりましたでしょうか。答えは「年」で、十二の枝が「月」、四つの巣が「週」、七つの卵が「日」だそうです。このナゾナゾの深く意図するところは一日を卵にたとえていることです。卵は壊れやすく、腐りやすいものです。だからこそ大切に扱わなければいけません。一日も同じです。しかし、自分を振り返るとどうでしょうか?私自身、昨年は卵をいくつ壊したでしょうか、たぶん数え切れないほどの卵を壊し腐らして、日々を無駄に過ごしたかもしれません。
 私たちは時計を使って時間を計りますが、心理的な時間は必ずしも時計の時間とは一致しません。楽しいことをしているときは、瞬く間に時間が経ちますが、嫌なことや、また病気などで辛く苦しいときには、一分が一時間にも感じられるものです。さらに、年を取るほどに一日が短くなっていくことは多くの人が感じていることでしょう。私たちの感じる時間の流れは人によって千差万別です。
 むかし、中国は唐の時代に趙州和尚という禅僧がおられました。あるとき弟子から「時間は刻々と容赦なく過ぎて行きますが、一日二十四時間をどういう心構えで過ごしたらよいでしょうか」と問われました。その問いに趙州和尚は「あなたは時間に使われているが、わたしは自由に時間を使っているよ」と......。時間を使うのは他でもない自分自身であります。主体をどこに置くか?今年一年を、時間に使われるのではなく、その時間を使い切る毎日でありたいと思います。
 因みに、真実は定かではありませんが趙州和尚は百二十歳の生涯であったと伝えられています。しかし、時間に限らず、すべてにおいて、使われるのではなく使い切ったからこ その長寿ではなかったのでしょうか。

栗原正雄

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