法話の窓

【好日】師父のこと(2009/08)

 お盆を迎える季節になりましたが、この時期になると父であり師でもある先住職のことをよく思い出します。亡くなってから、はや十年が経ちました。八十六歳の遷化で天寿を全うしたと思いますので正直、あとに残る悲しみはありません。しかし、師父の良い面や優しさをしみじみと思い出すのです。

 

 私は父の晩年の子で、年齢差もあってかあまり話をしませんでした。僧侶になることを決心し修行道場へ行くときも、帰山して副住職として法務をともに務めていたときも、ほとんど会話はありませんでした。でも師父が亡くなってから不思議と何か行き詰まったり、悩んだりしたときに、父ならどうするだろうか、と常に問うている自分に気づきます。 作家の井上靖さんが、ご自分の父のことを語ったエッセーで、父の死によって二つのことを教わったと書かれています。 「一つは父が、私と死の間に屏風として立っていたこと、父が死んで死と自分との間の風通しがふいによくなり、自分の死ということを考えるようになった。そして遅ればせながら父が生きているだけで、子どもをかばってくれていたことに気づいた。もう一つは、父が亡くなると同時に、私の中に入り込んで生きだしたことである。生きているときは感じなかったが、父が死んでから、私は自分の中にいる父を感じ始めた」と......。 最近、生前の父を知る方々に「よく似てきたね」と言われます。若いときは父の生き方に反発し、僧侶をも否定していたこともありましたが、私は父の死によって、はじめて父を理解し受け入れられたのかもしれません。中国に「人が死ぬのは忘れ去られたとき」という古い諺があるそうですが、父は今、私の中で生きています。そして、師父の良い面を受け継ぐ自分でありたいし、そう努力することを誓うお盆にしたいと思います。 亡き人を通してお互いが生かされている喜びを知り、「おかげさまで」「ありがとう」という報恩感謝の行事としてお盆をつとめさせていただきたいものです。

栗原正雄

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