法話の窓

【好日】ただ扇ぐのみ(2009/06)

 梅雨時期の六月は蒸し暑い季節ですが、扇風機もエアコンもなかった中国は唐の時代に次のような話があります。
 山西省の麻谷山に住して禅を説いた宝徹和尚(生没年不詳)がある暑い日に、扇子を広げて扇ぎ涼んでいました。そこへ一人の修行僧が訪ねて来て質問します。「風は、いつ、どこにでもあるものです。それなのに和尚は、なぜ扇子を使うのですか」その問いに宝徹和尚は、「君は、風はいつどこにでもあるという真理は知っているようだが、いま、ここに風があるという事実は知らないようだな」と答えます。すると修行僧は「それはどういうことでしょうか」とさらに問います。そのとき宝徹和尚は、ただ扇ぐのみ。それを見た修行僧は深く礼拝します。

 

 風はいつでもそこにあるといっても扇ぐという実践がなければ風を感じることはできません。この問答は、普遍の真理を事実として理解するには観念論ではダメで、実践という体験がないと本当に自分のものにならないという禅門では有名な教えです。
 ところで、修行のため入門した徳源寺専門道場から自分の寺へ帰るとき、師である松山萬密老師から墨痕鮮やかに揮毫した朱扇をいただきました。その扇子を私に差し出された老師は「その朱扇、どうやって使うか知っているか」と問われるのです。私は咄嗟にその扇子を広げ一生懸命に扇ぎました。すると老師は、「それでは駄目だ貸してみなさい」と言って扇子を取り、ゆっくりと静かに扇がれるのです。「それでは風がきません」と反問すると「これでいい、これでいい」と......。それは老師から私への大きな宿題になりました。
 二十年以上が経ちますが未だに正解は出せません。いまは、「暑いときには暑さを、寒いときには寒さを、まずはじっくりと味わいなさい」と私なりに理解しています。暑いからといってクーラーの部屋に逃げるのではなく、まずは、その暑さを、しっかりと受けとめなさいと......。ただ扇ぐのみの「ただ」はすべてを受け入れること、例えそれが苦しく困難なことであっても、そして「扇ぐのみ」、仏道を学ぶ修行と受けとめ真摯に行ずることです。

栗原正雄

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