法話の窓

【曲肱】秋の夜長(2008/09)

 九月を長月というようになったのは、古くは、『日本書紀』の巻三、神武天皇の段より、年次、月次、日次を干支で表わすようになったころからのようです。

 

「九月の甲子の朔戊辰に、天皇、彼の菟田の高倉山の.........」と、あるように九月を(ながつき)と読んでいます。
 また、『拾遺和歌集』の中に「よるひるの かずはみそちにあまらぬを なと長月といひそめにけん」と、問われた歌に応えて「秋ふかみ 恋する人のあかしかね 夜をなかつきと いふにやあるらむ」と、あります。明治には、「秋の夜長を鳴き通す ああおもしろい虫のこえ......」『虫のこえ』(尋常小学読本唱歌)の歌詞の最後の部分ですが、ここにも秋の夜長という言葉がでていますように、秋の夜は長いということから夜長月、長月となったようです。この夜長をどのように過ごすのかということなのですが、灯火の下で書を紐解くか、はたまた、あかしかねるか、いろいろあることでしょう。
無明長夜という言葉がありますが、欲望の真っただ中であくせくするわたしたちを長い夜をさまよっている姿に譬えられたものであり、毎日の生活そのものでもあります。
 この九月は、「お彼岸」の月です。彼岸というのは理想の世界のことです。理想の世界というのは、安心した生活の送れる平和な世界でしょう。今、世界のあちこちでテロ事件や紛争が相次いでいます。また食料品や水、空気に至るまでどれ一つを取り上げても、不安が付きまとっています。同様に、私という者がいることそのことが他の人たちから、どのように受け入れられているのか分かりません。戦争のみならず、これらの不安や心配の一つ一つがなくならない限り、平和な世界とは言えないのです。
 ちなみに、戦争を起こす怒りの心を瞋(しん)といい、公害を引き起こすような自分さえ良ければいいというような心を貪(とん)といい、物事を正しく理解できないことから人を差別するといったものの道理に暗い心を癡(ち)といい、これら三つの心を三毒(貪・瞋・癡)といっています。つまり、平和を願う私たち自身の心の中にある平和の大敵です。
 この大敵と共にある私たちは、自らが自らを戒め、この秋の夜長を静かに体と呼吸と心を調える時間と、人生の指針となる良書を紐解く時間にあて、たとえ微力であっても、彼岸という平和な世界到達に向かって精進し続ける心づくりとしたいものです。

林 学道

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