法話の窓

明歴々露堂々

 うだるような暑さも少しずつ和らぎ、秋の趣が日ごとに増してきています。9月の楽しみの一つといえば、中秋の名月。私は毎年この時期になると、一つの禅語を思い出します。それは「明歴々露堂々(めいれきれきろどうどう)」という禅語です。
 日本史学者であり、また禅の老師でもある芳賀幸四郎師はこの語を次のように解説されています。

 

 「明歴々露堂々」とは、「歴々と明らかに、堂々と露(あら)わる」という意味で、「明らかにはっきりあらわれていて、少しも覆(おお)い隠すところがない」ということです。

 

 換言すれば、「世の真理と呼ばれるものはどこかに隠れているわけではなく、最初からありのままに現われていて、それに気付く心こそが大切である」ということになるでしょう。
 中秋の名月の時期になると、この語にまつわる、とある檀家さまとの会話が思い出されるのです。その方はKさんといい、プロの写真家です。Kさんのお宅には月参りに伺っているのですが、お参りの後によくお話をします。

 3年前の9月のこと。いつものように月参りを終え、出していただいたお茶をいただきながら私はKさんに、「今月は中秋の名月ですが、綺麗な月が撮れるといいですね」と話かけました。するとKさんからは思いもよらないこたえが。
 「月が出ているかは問題ではないですよ」。
 これを聞いた私は少々面くらいました。
 「月が出ていなければ、撮る甲斐がないのでは?」そう言いかけた私の表情を察してか、Kさんはこのように続けます。
 「禅の言葉に、『明歴々露堂々』というものがあるでしょう。僕はこの言葉を写真家としての座右の銘にしているんです。写真とは『真実を写す』と書きますが、例えば月が出て目に見えているときだけがいわゆる真実ではないと思うんですよ。雲に覆われていても月はその裏側にあるし、お昼間だって目に見えないだけで確かに存在している。目に見えるものだけではなく、見えないけれど確かにあるはずの真実に目を向けていくことでより良い写真が撮れる気がするんです」。
 この考えはおそらく、Kさんの写真家としての矜持なのでしょう。更におっしゃるには、
 「『真実』と言うと大げさに聞こえるかもしれませんが、本当は私たちの身の回りの当たり前のことひとつひとつが『真実』なんでしょうね」。
 この一言で、月が出ていなければ写真映えしないではないかと思っていた先ほどまでの自分の考えが打ち砕かれました。
 月が輝いているのも、雲が出ているのも、あるいは私たちがこうしてお互いに生きているということさえも、それ自体が尊い真実に他なりません。

 とかく私たちは雲に隠れた月を見ようと、ままならないことに躍起になったり、月を隠す雲を疎んじたりしてしまいがちです。時には自分自身を綺麗にカッコよく映えるように、着飾ったり虚勢を張ることもあるでしょう。
 しかしちょっと「明歴々露堂々」という禅語を思い出して立ち止まってみると、自然そのまま、ありのままがすでに尊く有り難いことだと気づかされます。

 

 中秋の名月に臨み、一度私たちの周りの「当たり前なこと」に目を向けてみませんか?

野田晋明

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