法話の窓

049 見えないよー

 眼のくもったおとなが、おさない子どものやることをみていると、ドキリとさせられて、あたらしいヒントをもらうことがあります。

 いく年かまえのことでした。3歳になったダイチャンが、おじいさんと東京タワーにのぼった時のことです。あこがれのタワーです。遠くからながめて、

「きれいだなぁー」

ちかづいて、

「すごいなぁー」

 そして、いよいよエレベーターにのって、いちばん上へ。

 地上250メートルの展望台からは、どこまでも景色がひろがります。ダイチャンは東の窓へ走っていって、つぎには西の窓へ走っていきます。そして、南と北へ走っていきました。なにかをさがしているようですが、さいごに泣き出してしまいました。ダイチャンは大つぶの涙をいくつもいくつも流していいました。

「東京タワーが見えないよー」

 幼い子どもの発想は、眼のくもった大人をドキリとさせます。

 ものごとは、どんどん近づいて、奥深くにはいってしまうと、ぜんたいの姿は見えなくなってしまうのです。たとえば、あなたの目からいちばん近くにあるものはなんでしょう?

 まゆ毛!それとも鼻!

 まゆ毛も鼻も、ちょくせつ目でみることはできません。見ようとしたら、鏡をつかうか、写真にとって確かめてみるか!

 あるいは、空気だってそうでしょ!私たちは毎日まいにち、空気がなければ生きていけない。でも、それを直接見たり、手にとったりすることはできない。

 お釈迦さまはこんな言葉をのこされました。

「ここに二つのアシがあるとするがよい。二つのアシは、相依っているとき、たつことができる。それとおなじようにこれがあるから、かれがあるのであり、かれがあるから、これがあるのである」
『雑阿含経(ぞうあごんきょう)より』

 私たちは、見たり手にとったりすることのできないものに助けられて、生きています。そして、それはすぐ近くにあるから、よく見えないのです。

花岡博芳

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